2026/3/14

これは、私が三十歳を過ぎたころの話である。
テレビ愛知に勤めていた私は、ある日、内示を受けた。
「次の人事で、事業部へ行ってもらう」
番組を作るわけでもない、営業とも違う。当時のテレビ局において、事業部はどこか実体の掴めない部署だった。
「イベントをやる部署らしい」
その程度の理解だったが、私の心の奥底には消えない火種があった。
「いつか、モーターショーのような巨大イベントを、自分の手でプロデュースしてみたい」
当時のテレビ愛知の規模からすれば、それは身の程知らずな夢だったかもしれない。ところが私は、その夢を現実にする「端緒(たんしょ)」を自ら見つけ出し、強引に引き寄せた。
「キャンピングカーショーをやる」
それは、誰かに与えられた企画ではない。私がゼロから描き、実現させた挑戦だった。
モーターショーほどの規模はない。しかし、キャンピングカーというジャンルに特化した「カテゴリキラー」のオートショー。当時の地方局にとっては、あまりに新しく、そして無謀な賭けだった。
1993年11月。舞台はポートメッセなごや(名古屋市国際展示場)第1号館。
開場直前、ふと会場の外に出た私は、自分の目を疑った。
異様な光景だった。
人の列ができている。それも、とんでもなく長い。
「まさか」と思い、列の先を確かめるため、円形の第1号館の縁を歩き出した。
どこまで行っても、列は途切れない。歩いても、歩いても、人の波が続いている。
気がついたとき、私は震えていた。
入場を待つ人々の列が、巨大なドーム館をぐるりと一周し、完全に取り巻いていたのだ。
当時のテレビ局の催事といえば、コンサートが主流だった。ホールを押さえ、演者を呼び、チケットを売る。当たるか、外れるか。
しかし、私が企画した「名古屋キャンピングワールド」は、まったく別のビジネスモデルだった。
出展企業から「出展料」をいただき、来場者から「入場料」をいただく。企業と観客、その両方の満足度を最大化させなければ成立しない、極めて難易度の高いプロデュース力が求められる世界だった。
まず、出展企業が集まらなければ「中身」は空っぽだ。
私は企画書を抱え、自らの足で企業を一軒一軒回った。テレビ局の社員が泥臭く直接営業をかける――当時、名古屋の放送業界では誰もやっていなかったと思う。「オレ流」の事業部マンとしての開拓だった。
あれから三十年以上が過ぎた。
私が立ち上げたキャンピングカーショーは、優秀な後輩たちの切磋琢磨もあり、現在も続いている。いまやテレビ愛知は、名古屋の民放の中でもイベント事業において「最強」と言われるほどの存在になった。そのDNAの源流は、間違いなく1993年のあの日にあったと自負している。
数年前、後輩から「キャンピングカーショーって、いつ始まったんですか?」と聞かれた。
局の歴史の中で、創始者の記憶は消えかかっているのかもしれない。だが、これだけは断言したい。後に続くすべての成功の「コロンブスの卵」は、私が自らプロデュースした1993年のあの展示会だったのである。
テレビ局の価値は、視聴率という数字だけで決まるものではない。
「街に、これだけの行列を作れる力がある」
それを自らの手で証明できた、あの朝の快感。
私の原点は、1993年、ポートメッセなごや。
あの円形の建物を一周した、長い長い行列の向こう側に、今も確かに存在している。
あの日、私は名古屋に行列を作った。
今度はここ、北名古屋で。
ロケ誘致という魔法を使って、「活気」という名の行列を作りたい。
パイオニアとしての挑戦は、ここからが本番だ。
元テレビディレクター・村上さんせいが綴る、業界の裏側と北名古屋への想い。
僕がテレビマンだった頃 さらに他のエピソードを読むなら
[人気エピソード]
[ドラマッチクだった僕の仕事]
[原点とこれからの活動]
【元テレビマン・村上さんせいの「本音」をもっと知る】
公式HP: 北名古屋をドラマチックに変える、具体的な政策はこちら
■ 公式サイト 北名古屋.com
■ 村上さんせい プロフィール(選挙.com)
■村上さんせい ブログまとめ

この記事をシェアする
ムラカミ サンセイ/68歳/男
ホーム>政党・政治家>村上 さんせい (ムラカミ サンセイ)>〜ポートメッセ第1号館、会場を一周したお客様の行列の記憶〜【実録】僕がテレビマンだった頃