2026/2/16
テレビ業界では20年間働きました、テレビの舞台裏を見てきました、
だから「北名古屋へのドラマや映画のロケ誘致」はやればできると確信しています。
実は、早稲田大学卒業後、最初に就職したのはテレビとは関係ない地元の名門企業「豊田自動織機製作所」(自動織機は当時は自働織機と表記)でした。しかし、半年後に退社してしまいました。それから、どうしたか?
東京に舞い戻って、テレビの舞台裏で働くことになりました。
東京キー局の人気番組の裏方として働く仕事、大変ではありましたがとてもワクワクする仕事でした。
東京のテレビ美術の制作会社、ル・オブジェ・アール・スタジオへ入社、その後テレビ愛知へ転職してテレビ業界で社員として20年間務めました。この第1話のテレビ業界に入ったきっかけから、「私がテレビの舞台裏で見てきたこと」を、シリーズで書いていきたいと思っています。
【連載】村上さんせいが見た「テレビの舞台裏」
第1話:君もテレビの舞台裏で働いてみないか!
「本当に、来たんだね。村上くん……!」
年が明けて1月。いざ、東京へ。
初出社の日。
ル・オブジェ・アール・スタジオ(以下、オブジェ。業界では実際「オブジェさん」と呼ばれます、多分今も)のN取締役から掛けられたその言葉には、明らかな「驚き」と、少しの「呆れ」が混じっていた。
そりゃそうだろう。
数ヶ月前まで、私は名古屋にある「超」がつくほどの優良企業、豊田自動織機製作所の社員だったのだから。
トヨタ自動車の生みの親とも言える名門企業。早稲田大学商学部を卒業した私にとって、そこは将来の幹部候補かもしれない場所だった。
仲間たちからも「いい会社に入ったね」と喜ばれ、親孝行もできたはずだった。
しかし、私の心の中には、どうしても消し去れない「火種」があった。
「花の都・東京へのあこがれ」
入社してわずか数ヶ月。10月には、私は密かに東京へ舞い戻っていた。
次の仕事を探しに、再び東京へ降り立ったという訳だ。
さて。晴れて1月から、テレビ美術の制作会社「オブジェ」の社員となる。
強調したいのは、アルバイトではない。正社員としての入社だ。
週刊就職情報の「求人広告のコピーの一行」に食いついた
東京で仕事を探していたわたしが手にしたのは、当時は雑誌として発行されていた『週刊就職情報』だった。
そこに躍っていたコピーが、私の運命を変えた。
「君もテレビの舞台裏で働いてみないか!」
これだ、と思った。
その求人を出していたのは、東京都調布市にあったテレビ美術の制作会社「ル・オブジェ・アール・スタジオ」。
面接に行くと、そこは『THE TOP10』『今夜は最高!』『カックラキン大放送』といった、当時誰もが釘付けになっていた人気番組の美術を手掛ける精鋭集団だった。
面接官のN取締役は、私の履歴書を見て目を見開いた。
「村上くん、早稲田なんだ……本当にうちに来てくれるの?」
「ハイ!」
私は答えた、迷いはなかった。
その場で一発合格。私の「テレビマン人生」の幕が開いた瞬間だった。
年が明け、1月。
冒頭の「本当に来たんだね」という言葉で迎えられた私の仕事は、およそ「早稲田卒の有名企業のエリート候補」とはかけ離れたものだった。
腰に「ナグリ」を差し、スタジオ中を走り回る。
大道具を組み、小道具を仕込み、時にはウレタンを整形して着ぐるみを作る。テレビ制作の「末端」でありながら、画面のすべてを支える現場。
周りを見渡しても、早稲田卒という人間はいなかったと思う。
だが、そこには高学歴も肩書きも関係ない、表現者たちの「熱狂」があった。
今にして思うと、豊田自動織機製作所の皆様にはご迷惑をかけたかなと思う。当時は「第二新卒」などという言葉もなく、私の立場は完全に「ドロップアウト」状態。辞めた私も度胸があったが、半年で辞められた会社側の皆様には本当に申し訳なかったと思っています。今さらながらですが「ゴメンナサイ」です。豊田自動織機製作所は実際いい会社で、その後も大きな成長をされています。そこはコングラチュレーションです。
さて、オブジェへの入社。
ここから、私の波乱万丈なテレビマン人生が始まった。
著作制作:村上さんせい | 北名古屋にロケを呼ぶ会(元テレビマン 村上三清後援会)
【次回予告】
美術スタッフとして現場に入った私が出会った、本物の「天才」。
**「ビートたけし、やっぱ凄い人だった」**というお話をさせていただきます。
[原点とこれからの活動]
【元テレビマン・村上さんせいの「本音」をもっと知る】
公式HP: 北名古屋をドラマチックに変える、具体的な政策はこちら
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ムラカミ サンセイ/68歳/男
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