【関連】29万票獲得も落選。ネット界の伝説となった山田太郎氏が今後目指すものとは? >>
【関連】なぜ? 共産 武田氏は2万票で当選。オタク代表 山田太郎氏は29万票で落選 >>
※本記事は「Patriots 政治をもっと身近に、おもしろく」の転載となります。記事内容は執筆者個人の知見によるものです。
「日本の素晴らしさを世界に広め、世界の素晴らしさを日本に広める」。そんな夢を中高生のころに描いた、という実業家の松田公太さんは、2010年から6年間の参議院議員を務めたのち、今年、政界を引退されました。全くの門外漢だった、という政治の世界で、松田さんは何を見つめ、何を変えたのか。民間と政治を行き来した立場から感じたこと、これからの展望などをお伺いしました。
―ビジネスの世界でご活躍されている最中、参議院議員となられたのはどうしてですか?
私は父の仕事の都合で、5歳から高校卒業まで海外で育った帰国子女です。ずっと外から日本を見て、諸外国と日本の違いや、日本が海外からどう見られているか、といったことを感じ取ってきました。将来は日本の素晴らしさを海外に発信する存在になりたい―。そんな使命感を持つようになったのは自然なことでした。
まずは日本の「食」を世界に発信することから始めようと、中学生のころには寿司のチェーン展開を考え始めました。銀行へ入行したのも、起業を前提に経営を学ぶためです。
そんな折、アメリカでスペシャルティコーヒーとの出会いがありました。色々と検討する中で、世界から日本にないものを持ってくるというのはどうだろうか、と発想を転換し、当時まだ数店舗しかなかった小さなコーヒーショップタリーズと交渉の末、97年に日本一号店を銀座に創業しました。
タリーズの経営から退いたのち、今度はいよいよ日本の文化をアジアに広げていこうと考え、シンガポールにビジネスの拠点を移しました。当時の日本は景気がとても悪く、シンガポールで聞く評価は「日本って経済も危ういし、何もいいところがないよね」とか「アジアのお荷物だね」とまで言われてしまうなど、散々なものでした。昔、アメリカに住んでいたころは「日本の経済は素晴らしい」とリスペクトを込めて評価されていただけに、私はショックを受けました。
世界に誇れる素晴らしい日本文化も、経済力が弱くなれば発信できなくなりますし、イノベーションも起こせない国になってきているとしたら、政治の責任が非常に大きい。そこに危機感を持っていた矢先、「みんなの党」(当時)から2010年7月の参議院議員選挙に出ないかというお誘いをいただきました。
それまでも、何度か政治の世界へのお声がけはいただいていましたが、ビジネスの世界で日本の素晴らしさを発信していきたいと思っていたので、悩む間もなくお断りしていました。何より、政治についてよく知らないし、自分がやりたいという考えもなかった…。そんな私のような門外漢が、政治の世界の内側に入っていっていいのだろうか。その迷いがあったので、「みんなの党」からのお誘いも最初はお断りしたのですが、むしろ政治家秘書をやったり、政治家の二代目・三代目ではない人に来てもらいたい、経営者の新しい発想で政治に風穴を開けてほしい、と説得され、徐々に「なるほど」と考えるようになりました。
もともと私は、「日本を良くしたい」という思いの中で、50歳以降はビジネスから一線を退き、NPOやボランティアなどで社会に役立つことをやっていきたいと考えていました。その時期が少し早まったと考え、出馬して当選したら41歳から任期満了まで、少なくとも6年間は政治に取り組んでみよう。そのあとで、またビジネスをやるのでもいいのではないか、という、なかばボランティア的な気持ちで政治の世界へ足を踏み入れました。政治家として私腹をこやそうとか、名誉を得ようとか、そのような気は全くありませんでした。
―足を踏み入れた政治の世界はいかがでしたか。
政治の内側に入ったことで、外から見ているだけでは分からなかった問題点や、改善すべきところが多々見えてくると、「改革をしたい」という想いが強くなりました。間違ったまま継続しているようなシステムというのは、誰かが“おいしい”思いをしているから続いているわけで、いつまでたっても打破されません。そこを崩していく、というのは戦いになるわけです。「みんなの党」は小さなベンチャー政党でしたし、何か新しいことをやろうとすると、まわりは敵だらけになってしまいます。でも、たとえ大きな政党にいても、党の方針に足並みをそろえないとつぶされてしまうでしょう。その点、「みんなの党」は小さな政党でしたが、様々なチャレンジをさせていただきました。
―その後、「みんなの党」は解党に至りましたし、著書などから、いろいろ波乱万丈だったように拝見しています。
路線の対立によって党は分裂状態となったのですが、私も解党はしたくありませんでした。しかし分党は許せなかったのです。分党すれば、政党交付金を分け合うことができました。しかし、それでは今まで「みんなの党」を信じて支持をしてくれた有権者の方々に申し訳が立ちません。もともと「みんなの党」は「自民でもない、民主でもない」是々非々の第三極の政党として始まりました。それなのに、分裂し、路線の問題でもめるのなら、潔く解党して、残ったお金も国に返しましょう、と訴えました。
もちろん解党には反対がありましたし、強い批判も受けました。でも結局、当時の執行部と交渉して実現することができました。交付金を国に返納したのは、1995年に政党交付金の制度ができて以来、初めてのことです。良い前例は作れたと思いますが、ものすごく恨みを買うことでもありました。
―そして「日本を元気にする会」を立ち上げられました。
みんなの党の解党で、私は無所属になりました。他党からの誘いもありましたが、「みんなの党」での経験から第三極の存在意義を痛感していましたし、無所属で力を発揮するのは非常に難しいことも知っていました。
そこで国民の声を政治に最大限取り入れ、これまでの政党にはない新党を立ち上げようと、新たな挑戦を始めました。当選1回の新人議員としては異例のことでしたが、「私にできること」を貫くため迷いはありませんでした。こうして2015年に誕生したのが「日本を元気にする会」です。
「日本を元気にする会」は5人で始まった政党でしたが、私は仲間を信じていましたし、次の選挙も楽しみにしていました。ところがそのうちの1人が残念なことに急きょ離党したため、政党要件を失いました。それはとてもショックでした。何とかもう一人、仲間を増やして政党要件を満たせないか画策もしました。
しかし、いま政治は過渡期にあり、「自公 VS 民共」のような枠組みができつつあり、その中で「日本を元気にする会」のような小さな政党に入ってくれるには、自民でも民進でもない、信念のある第三極の政党を作ろう、という強い想いのある人でないと、なかなか難しいわけです。それで、比例区で出馬予定だった既存の仲間には他の政党の推薦をもらうなど、党の仕事が一段落した段階で私は代表を退きました。
―2016年の参議院議員選挙に出馬せず、政界を引退されたのはどうしてですか?
残念ですが、政治はやはり数の世界。無所属に待っているのは発言権のなさや活動の制約です。かといって、第三極を真剣に標榜しているものがあるか、と いうと、現在は無い。そのような状況であれば、自分のやりたいことを追求できる機ではないと考え、政治の世界からいったん退くことを決めました。今度はビジネスの世界でやりたかったことを、もう一度追求しようとスイッチを切り替えたんです。
アメリカでは、政治と民間の世界を行ったり来たりする様子を、「リボルビング・ドア(回転ドア)」という言葉で表現します。政府の要職や官僚が、政権が変わるタイミングなどで民間に戻り、また再び政治の世界に戻って…というような行き来を繰り返しているんですね。その中で政治と民間、両方の世界で知見が深まり、ノウハウも高まり、それを社会に還元できるのだと思います。世の中の様子は、数年で変わりますからね。
日本では、それを良し、としない風潮はありますが、そういう人も増えていかないとダメだと思います。自分が今後、政治の世界に戻るかどうかはわかりませんが、私のように政治の世界を知った後、また民間に戻って、という人が増えたほうが日本のためにはいい。同じことは役人にも言えると思います。役人にはもっと、民間での経験を増やしてほしいです。
―波乱万丈の6年間だったと思いますが、議員生活を振り返ってみてどうですか?
どうすれば国と国民にとって有益かを最優先に考えて活動をしてきました。インターネット選挙を可能にする公職選挙法の改正などには特に尽力し、また目標として掲げていた金融緩和についても様々提言しましたので影響を与えられたと思っています。「日本を元気にする会」では、安保法案に歯止めをかけることもできましたし、自分なりにポリシーを貫いた政治生活でした。
―これからの展望などをお聞かせください。
これからは政治の外の世界から、自分にできることをやりたいと思っています。しばらくはビジネスを全うするつもりですが、立ち上げた社団法人などもいくつかあるので、その関係から政治に物を申すこともやっていきたいと考えています。
―最後に、どのような方に政治の世界を目指してほしいか、ご意見をお伺いできますか?
弁護士や公認会計士に限らず、スペシャリストで、落選しても食べていける人。また、ビジネスマンや経営者といった人たちで、既に蓄えがあり、「政治を職業にしよう」と思わない人たちが良いと思います。二代目や三代目の政治家を否定する気はありません。しかし、政治で“食べていく”人になってしまうと、結局は再選ばかりを気にして、政策を簡単に変えてしまうんですよね。信念であるかのように語っていた演説の内容でさえ、あとから平気でコロッと変える人がいますから。
それでは、国民の皆さんが政治家を信用しなくなるのは当たり前。政治家は口ばっかり、と批判されるのがよく分かります。だからこそ「政治の世界から離れても大丈夫」という人たちなら、自分の信念を大切にして政治ができると思うんです。私はそういう人たちに、どんどん挑戦してもらいたいです。
聞き手:吉岡名保恵
■プロフィール
松田公太(まつだ・こうた)
1968年12月3日生まれ。5歳から17歳までの大半をアフリカとアメリカで過ごす。1990年、筑波大学国際関係学類卒業後、三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に入行。その後、1998年に、タリーズコーヒージャパン株式会社を設立。約3年で株式を上場し、300店舗を超えるコーヒーチェーンに。2007年には、世界経済会議(通称:ダボス会議)のヤンググローバルリーダーとして選出される。開発途上国の飢餓解消に取り組むNPO「TABLE FOR TWO international」理事でもある。
2009年、EGGS ‘N THINGS INTERNATIONAL HOLDINGSを設立。日本でのパンケーキブームの先駆けとなる。
2010年、参議院議員選挙にみんなの党より立候補、東京都選挙区にて当選。2015年1月、日本を元気にする会を結党。代表に就任。同年7月の第24回参議院議員通常選挙に出馬せず、任期限りで政界を引退。
著書に『すべては1杯のコーヒーから』、『仕事は5年でやめなさい。』、『チャンスをつかむ人、ピンチをつかむ人』、『愚か者』。
※本記事は「Patriots 政治をもっと身近に、おもしろく」の転載となります。オリジナル記事をご覧になりたい方はこちらからご確認ください。
この記事をシェアする
選挙ドットコムの最新記事をお届けします
My選挙
あなたの選挙区はどこですか? 会員登録をしてもっと楽しく、便利に。
話題のキーワード