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「私は立つ/デモと意思について」(寒川倫のエッセイ)

2015/8/13

寒川倫

寒川倫

来夏の参院選から18歳選挙権が導入され、高校性の一部や大学生など、全国で約240万人が新たな有権者となります。渋谷の高校性デモが話題となっていますが、政治的な意思を一票に托すことができない若者にとって、デモは政治参加の一手段でもあります。

今回、デモに参加することについて、19歳の寒川倫さんにエッセイを書いていただきました。常に独りでデモに参加し続ける彼女は、「自分の気持ちについて、はっきりさせずにデモに出ると、集団に飲まれてしまう」と率直な気持ちを綴っています。政治に参加する一人一人に読んでいただきたいと思い、全文を紹介させていただきます。 (選挙ドットコム編集部)

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「私は立つ/デモと意思について」

2015年7月15日19時8分の私は国会議事堂前駅に立つ。デモの夜の国会前は人でできた海だ。肌と肌が擦れることを気にする余裕もなく、進めるだけ進み、なるべく高くプラカードを掲げる。叫ぶ声の中、一人で立ち、一人で歩き、一人で帰る。

私は1995年生まれの19歳で、日本史を学んでいる大学2年生である。
これから私について、それから私がデモについて考えていることについて話そうと思う。私という、この国で育った19歳の人間が、何を見たか、何を感じたかを、私にできる限り丁寧に書こう。でも、本当に大事なのは私のことではなくあなたのことだ。私は私について考えるので、あなたにはあなたについて考えて欲しいと思う。感じたことは言葉にしないと「感じた」という事実ごと消えてしまう気がしてならないから。

私のデモ参加歴は少なくとも10年以上になる。覚えている限り、一番古いデモの記憶はイラク戦争の抗議行動だ。私の両親は社会運動にとてもとても積極的で、私はそんな二人から強く影響を受けてきた。一方でそういったことに厳密な親でもあったので、私が自分で戦争反対の意思を示すまでデモへは連れて行かなかったという。確かに幼少期の自分はデモのたびにうきうきとプラカードを書いていた記憶がある。

そんな家の娘だったので、許せないことに対して抗議行動を起こすことは、私にとってごく当たり前だった。ヘイトスピーチの存在を知ってからはヘイトデモのカウンターに参加するようになり、特定秘密保護法や集団的自衛権の法案が閣議決定されるとその都度抗議に出向く、そういう予定が自然に生活に入り込んでいった。

ただ、今まで誰か他人とデモに参加したことはない。行く時はいつも一人である。昔は人を誘ったこともあったが、何かの理由で毎回やんわり断られた。多分、行き慣れていない人にとってあの場所はあまりにも未知なのだろうと思う。

では、デモとはどういう場所なのか?

あなたはデモに行ったことがあるだろうか? 行ったことがないという人は、デモがどんなことをするものなのか分からないかもしれない。怖いとか、長時間で面倒臭そうだとか、もっと言うとデモに参加したところで意味がないのではないかとか、そういうネガティブな感想は、私の周囲でもよく聞こえてくる。

デモにそういうマイナスイメージを持っている人、デモなんて一生行かないと心に決めている人をデモに連れ出すことは、私にはできない。デモはそういう場所ではないからだ。行きたくない人に説教して連れてきて行うものではない。

逆に言えば、デモに参加している人たちは、ほとんどが自分の意思でその場所に立っているということになる。

その通り、デモとは意思の場所だ。いつも目には見えない意思が、目に見えるようになる。抗議の意思が、国会前に集まるというビジュアルで可視化されるのだ。私はデモを起こす意味として、この「意思の可視化」が最も大事だと考えている。目に見える意思としてのデモは、人を突き動かすエネルギーなのだ。大量に集まった人間が、ばらばらの価値観から一つの意思を共有して叫びをあげるのだから、その高揚はすさまじい。

だからこそ、「自分」について考えなくてはならないと思う。

自分が何を考えていて何のためにそのデモに参加しているのか、という自分の気持ちについて、はっきりさせずにデモに出ると、集団に飲まれてしまうのだ。集団の意思に丸め込まれて、無意識に判断を他人へ委ねることになる。

前述の通り、私はデモに出る場合、常に無所属で単独参加だ。「集団に飲まれた」時に立ち止まって考えられるようにしておくためである。デモは昂りである。大量の人間が叫んでいる場所で、簡単に人間個人は霞んでしまう。始めに考えていたことを忘れてしまいそうになる。そういう時、何かの集団に体を委ねきると、自分が感じた違和感を見逃してしまう気がするのだ。周りの人間が向いている方向性に違和感があった時、立ち止まれる余裕をなくしたくない。だから一人で行き、一人で参加して、一人で帰る。自分の考えていることは常に自分で把握して、私は私として私の人生を生きなくてはいけないのだ。

始めに言ったことをもう一度言おう。大事なのはあなたのことだ。あなたは今何に影響されて何を考えているだろう?

私は許せないものにNOと言う。NOというための場所としてデモに出る。活動家の顔はしない。私は私だ。そして私とは意思なのだ。

 

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寒川倫

寒川倫

1995年生まれの大学3年生。イラク戦争の頃にデモに初参加し、現在も一人でデモに出ている。「正しい倫理子」名義でねとらぼなどで執筆中。

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