2026/8/23
今日、いわゆる「発達障害」の一つである「多動性(ADHD)」をテーマとした映画「ADHD? 不登校?」『ノルマル17歳ーわたしたちはADHDー』の上映会を開催した、愛知県江南市の「不登校連絡協議会・ジャスミンの会」の代表の方に、お会いしてきました。
たまたま今日、横浜市の社会福祉法人の代表であり、横浜市議会議員選挙で、十二回も当選してきた市議会議員が、パワハラ問題でマスコミ沙汰になっている横浜市長のことを、「二重人格者 異常な発達障害者です」と自身のX(ツイッター)に投稿していたことが明らかになったということが、毎日新聞で報道されていました。
その議員の発想においては、発達障害は「異常な人間」という位置づけであるのでしょうが、それは、彼だけの問題ではないとおもうのです。そもそも、多動性やコミュニケーションが苦手だという特性を「発達に障害がある」として「障害」という言葉で決め付けることができるのでしょうか。精神科医河合佐和氏は、不登校である自身のお子さんのことを、「発達障害」とは呼ばずに、「発達ユニーク」と言っておられまることを最近しりましたが、私の同じ感覚の方がおられるということを知り、非常にうれしく思いました。
私たち現代人は、自分のことは絶対化しておいて、自分の価値尺度において肯定できないものを、信じられない、あいつは人間じゃない、とか、異常だとか決めつけてしまう傾向が非常に強いのではないでしょうか。

学校現場では、「特殊教育」「特別支援教育」ということがなされています。そうした教育が対象とする児童・生徒はいわゆる「障害児」だそうです。その場合の「障害児」とは、身体の機能に不自由のある「身体障害児」や知能に問題のある「知的障害児」だそうです。
そうした児童・生徒を「障害児」という言葉で定義すること自体、大きな問題ですが、そうした児童は、一応は客観的に身体そして知的機能について物理的・数値的に判定できるかもしれません。
しかし、多動傾向や人間関係が苦手という、今「発達障害」とされている児童・生徒、そして大人は、あくまでも性質の特性であって、ある意味、独自なキャラクターです。それを横浜市議のように、正常ではない「異常な」と決めつけて、それこそ、特殊な、異常な人間だから、正常な自分たちの村から排除しろ、あるいは、特定の場所で教育しろという発想は、実は学校だけでなく、広く現代日本の社会全体を覆っている空気なのではないでしょうか。
「発達障害」は決して「障害」ではない。それは、その子・その人の特性であり、ある意味、輝きでもあるという事実を、これから、在野で取り組んでおられる方や、福祉関係の方。そして学校の教室の現場で悩んでおられる教員の方たちと、それぞれの立場や垣根を突破して、誰もがそれぞれの特性を敬い合える関係を切り開いていきたいと、改めて感じた次第です。
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