2025/10/20
| 小森さだゆき|参政党所属/高槻市議会議員
今回インドを訪れて、最も強く感じたのは「人々の寛容さ」でした。
街を歩けばクラクションが鳴り止まず、バイクが歩行者の間を縫い、列に割り込む人も珍しくありません。
それでも周囲の人々は怒鳴ったり、睨んだりせず、静かに受け流していく。
「まあ仕方ない」「そういうこともあるさ」という空気が当たり前のように漂っています。

日本で同じ光景があれば、きっと不快感が広がるでしょう。
しかしインドでは、それが“日常”として受け入れられている。
その寛容さに、人間としてのあたたかさを感じると同時に、どこか「無関心」にも近い独特の距離感を覚えました。
インドはヒンドゥー教、イスラム教、シーク教、キリスト教、仏教、ジャイナ教など、多くの宗教が共存する国です。
人口は14億人を超え、言語も20以上、方言を含めれば数百種類に及びます。
これだけ多様な社会の中で生きるには、「他人を変えようとしない」「違いを受け入れる」という姿勢が不可欠です。
つまり、インドにおける寛容さは“理想主義”ではなく、混沌の中で生き抜くための“現実的な知恵”なのです。
関わりすぎると摩擦が生まれる。だから距離をとる。
この「関わらない知恵」が、人々の平穏を支えています。
ヒンドゥー教や仏教には「カルマ(業)」と「輪廻転生」の考えがあります。
人は自分の行いの結果を自分で引き受ける。だから、他人の人生に深入りしない。
他人の過ちも「その人の学びの途中」と見なし、裁かずに放っておく。
これは冷たいのではなく、“他人のカルマを尊重する”という宗教的距離感なのです。
つまり、インドの「無関心」は、信仰に裏打ちされた理性的な態度とも言えます。
それは「放任」ではなく、「神に任せる」という発想。
この宗教的背景が、人々の寛容さの根底にあります。
インド人の口癖に「チルロ(Chalta hai)」という言葉があります。
意味は「まあいいじゃないか」「仕方ない」。
一見すると楽天的ですが、その裏には“どうにもならない現実を受け入れる強さ”があります。
政治の腐敗、停電、渋滞、遅延など、理不尽が日常に溢れる社会で、怒り続けていたら心が持ちません。
だから「気にしない」という態度が、結果的に心の防御術になったのです。
この無関心は「冷たさ」ではなく、「生きるための適応」。
平和主義ではなく、忍耐と諦観から生まれた寛容だと言えます。
一方、日本では「人様に迷惑をかけるな」と教えられて育ちます。
秩序を守るためのこの教育は社会の正確さを支えましたが、
他人の目を過剰に意識し、息苦しさを生む側面もあります。
日本では「迷惑をかけないこと」が美徳。
インドでは「迷惑をかけても許し合うこと」が美徳。
この差は、他人とどう距離をとるかという発想の違いから生まれています。
インドの「寛容さ」は、単なる優しさではありません。
それは無関心・諦観・信仰が重なった上で生まれる、人間的な余白の文化です。
誰かが迷惑をかけても、「まあいい」「それがその人の道」と受け入れる。
その姿勢には、他人を支配せず、自分の平穏を保つ強さがある。
寛容とは、他人を変えようとしない勇気。
日本が「正しさ」を重んじる社会なら、インドは「受け入れること」を重んじる社会。
どちらにも学ぶべき点がありますが、今の日本にこそ、
インドのような「無関心の中にある優しさ」を思い出す必要があるのかもしれません。
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