長田 たくや ブログ

【研修報告】 元寇:最前線の地②~壱岐・対馬~ 【文永の役】

2024/5/30

こんにちは。兵庫県川西市議会議員の長田たくや(ながたく)です。
2023年の8月、参政党議員団で壱岐・対馬研修に行きました。

壱岐・対馬は、まさに国境の最前線。日本存亡の危機であった「元寇」の現場でもあります。
元寇を通じて、国防について一緒に振り返りましょう。今回は3部構成でお届けします。
開戦前の状況
元寇1回目(文永の役)(本記事)
元寇2回目(弘安の役)


■ 対馬の地理と環境
対馬は朝鮮と日本の間に位置し、貿易の中継地として栄えました。地形が山だらけで田畑も少なく、貿易に頼らざるを得ない環境でした。距離の近さもあって、朝鮮文化の影響も大きく、対馬には現在も多くのハングル文字が残っています。

■ 蒙古襲来(文永の役)
文永11年(1274年)、元軍が攻めてきました(文永の役)。対馬・壱岐を橋渡しに、九州本土にまで侵攻してきました。
10月3日:高麗の合浦(がっぽ)を出発
10月5日:対馬に侵攻
10月14日:壱岐に侵攻
10月19日:博多湾に侵攻

図の参照元:多賀歴史研究所

■ 文永の役(対馬)
対馬は、ほとんどが山間部で断崖絶壁が多く、船が入れるような入り江も限られていました。元軍(2万5千の軍勢と900隻の軍船)は、佐須川(さすがわ)の河口にある小茂田浜から上陸したとされています。

■ 古戦場:小茂田(こもだ)
当時の対馬は豪族「宗家」が治めていました。1274年(文永11年)10月5日、知らせを受けた2代目「宗 資国(そう すけくに)」は、80余騎を率いて佐須浦に急行しました。しかし、1000人の敵軍に対して全滅し、島民も多くが犠牲となりました。
小茂田神社は宗 資国を祀るために建てられました。

宗資国の銅像(実は2020年製)

■ 宗氏って何者?
宗氏は鎌倉時代から明治初期まで対馬島を支配した豪族です。
初代:宗 重尚(しげひさ)
2代:宗 資国(すけくに)
19代:宗 義智(よしとし)➡初代の対馬藩主
藩主2代:宗 義成(よしなり)➡父義智氏のため「万松院」を建てる
藩主35代:宗 重正(しげまさ)➡廃藩置県に

宗氏は、豊臣秀吉の朝鮮出兵後、対馬が国交の中継点から国防の最前線に変わる中で重要な役割を果たしました。

■ 狡猾な宗氏
豊臣秀吉の朝鮮出兵後、対馬は単なる国交の中継点から、国防の最前線へとその役割を一変させました。その結果、経済は低迷し、対馬の存続は危機的な状況に見舞われます。さらに、関ヶ原の戦いでは宗家は負ける西軍側に属していましたが、徳川幕府は朝鮮との重要な外交ルートを持つ宗家の存在を重視し、宗家が滅ぼされることを防ぐため配慮しました。

宗家にとって、朝鮮との国交回復は命綱とも言える重要な課題でした。そのため、宗家は徳川幕府と朝鮮との間で交わされる国書に手を加え(改竄)、速やかな国交回復を目指して工作を行ったと言われています。後にその工作が発覚したものの、徳川幕府は宗家の立場を鑑み、これを黙認したとされています。
参照:忖度?公文書書き換え江戸時代も 将軍が自ら追及

■ 対馬の金田城
元寇からさかのぼること1200年以上前、白村江の大敗後に日本は唐・新羅からの侵攻を防ぐため、667年に「金田城」を築きました。防人たちは城山から朝鮮半島を監視していました。当時の対馬は国防の最前線であり、極度の軍事的緊張が漂う国境の島でした。

後にこの場所は再び軍事的要塞として整備され、日露戦争前夜には砲台も設置されました。

防人たちも、同じ風景をみていたのでしょうか。

■ 文永の役(壱岐)
対馬侵攻から1週間後、壱岐にも元軍が押し寄せました。10月14日、元軍は浦海(うろみ)海岸に上陸し、武士だけなく住民も惨殺しました。赤子は股から引き裂かれ、男性は耳や鼻を削ぎ落とし、もがき苦しむ様子を楽しんだ後に斬り殺されたそうです。女性は掌に穴を開けられ、綱を通し引きずり回した後、軍船の船べりに結び付けて溺死させられるなど、殺戮の限りを尽したと伝えられています。

元軍が去った後には、山のようにな亡骸を集めて埋葬しました。あまりに多くの遺体を埋めたことから「千人塚」と呼ばれています。
壱岐は対馬と違って平野が多く、農業も盛んでした。それゆえに攻めやすく守り難かったのでしょう。

浦海神社がありますが、整備されていない状況です。

浦海海岸だけではなく、北部の天ケ原海岸からも侵攻を受けました。こちらにも千人塚があります。

■ 平景隆の戦い
元寇1回目(文永の役)で、壱岐の守護代であった平景隆(たいらのかげたか)は、約400人で元軍に立ち向かいましたが、退却を余儀なくされ、最終的に全滅しました。

■ 文永の役(博多)
10月19日、元軍は博多湾に集結し、翌日には、筥崎(はこざき)・赤坂・麁原(そはら)・百道原(ももじばる)・今津から分散して上陸を開始し、日本の鎌倉武士団と壮絶な戦いをくり広げました。

元軍の卓越した集団戦法や鉄砲技術などで、日本側は不利な状況でしたが、突如として博多湾から船団が消えてしまいました。

元軍の軍議では「このまま戦いが長引けば、やられてしまうので戻ろう」との記録が残されています。高麗の記録によると船体に傷がついていたようで、南風が吹いて玄界灘の荒波に飲まれたのかもしれません。日本側の記録にも突然姿を消したとあり、元の威力偵察だったという話もあります。

■ 蒙古襲来絵詞の違和感
元寇を描いた「蒙古襲来絵詞」では、元軍の姿が描かれていますが、兵士の線の濃淡に不自然さが見られます。これが勝利を演出するために後から描き足された疑惑があるとされています。

余裕で勝ってしまうと報奨が少なくなるため、少し苦戦した感じを演出するためじゃないか…とも言われているそうです。


ンゴル・コリア➡モンゴ・コリア➡「ムゴイ」という語源説もあるくらい、対馬・壱岐での戦闘行為は凄惨なものだったそうです。
文永の役は、運と根性で乗り切った感はありますね。次は2回目の元寇(弘安の役)に続きます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
素敵な1日でありますように。
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著者

長田 たくや

長田 たくや

選挙 川西市議会議員選挙 (2022/10/16) [当選] 1,680 票
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肩書 参政党の市議会議員で薬剤師でもあります
党派・会派 参政党

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