長田 たくや ブログ

【研修報告】 元寇:最前線の地①~壱岐・対馬~ 【開戦前】

2024/5/29

こんにちは。兵庫県川西市議会議員の長田たくや(ながたく)です。
2023年の8月、参政党議員団で壱岐・対馬研修に行きました。

壱岐・対馬は、まさに国境の最前線。日本存亡の危機であった「元寇」の現場でもあります。
元寇を通じて、国防について一緒に振り返りましょう。今回はその3部構成でお届けします。
開戦前の状況(本記事)
元寇1回目の現地
元寇2回目の現地


■ まずは地理
壱岐(いき)・対馬(つしま)の場所についておさらいします。壱岐は福岡から138km、韓国からは約50kmの距離に位置しています。対馬は日本の最前線にあり、朝鮮半島の影響を強く受ける地理的な位置にあります。

ちなみに、隠岐(おき)はまったく異なる場所にあります。隠岐は後醍醐天皇が鎌倉幕府から流刑された地でもあります。
(壱岐と隠岐ってごっちゃになる…)

■ 関連する時代のイメージ
当時の各国の状況を簡単に見ておきましょう。

中国:唐 → 宗 → 元
日本:奈良 → 平安 → 鎌倉
朝鮮:新羅 → 高麗

このように、ざっくりとした時代背景をイメージしてください。

■ 白村江(はくすきのえ)の戦い:660年
唐と新羅の連合軍が、朝鮮の百済を攻めました。日本は百済の救援に応じ、難民を受け入れたり派兵したりしました。しかし、日本の百済救援軍は、白村江での海上戦で大敗し、敗戦後、新羅は百済と高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一しました。

この敗戦を受けて、天智天皇(中大兄皇子)は、唐や新羅の侵略を防ぐため、中央集権体制を強化しました。唐との和平交渉を進めるとともに、防人制度をつくり、大宰府や大野城を作り急ピッチで防備を固めました。結果として、唐や新羅の侵略は防がれました。

引用: 12.水城跡 福岡県太宰府市水城、国分

■ モンゴル:蒙古の台頭
モンゴル帝国がどれほど大きくなったかは知られているかもしれませんが、その成り立ちについては意外と知られていないかもしれません。一緒に見ていきましょう。
参照:岐阜県総合教育センター(モンゴル帝国の拡大)より引用

12世紀「勇敢なヒト」の意味で“モンゴル”と自称した民族がいました。
モンゴルを中国語で音写したときに蒙古(もうこ)となります。

1206年、モンゴル高原が統一される。
テムジン氏は、クリルタイ(会議)で「チンギス=ハン」に選ばれます。
ハンは王や君主の意味します。

1234年、①オゴタイ=ハンが「金(中国)」を滅ぼしました。
③軍のヨーロッパ方面は、大きく4方向に侵攻をします。

1259年、モンケ=ハンは、弟の②フビライに命じて雲南の大理を滅ぼし、さらにチベット(吐蕃)、ヴェトナムに侵攻しました。
ついでに朝鮮半島の③高麗を属国に。

1264年、フビライ=ハンは、モンゴル帝国の本拠地をカラコルムから北京へ遷都しました。
国号を中華風の「元」と改めました。
1271年、高麗の民衆を徴用し、1274年に、日本に侵攻(元寇1回目)
1279年、南宋を滅ぼした後、1281年に日本へ再度侵攻しました(元寇2回目)

日本はこんな大国に攻められたのです。

■ モンゴルからのお手紙
モンゴル帝国は急速に領土を広げ、日本にもちょっかいを出してきます。
元寇に先立って、モンゴルから日本へのお手紙が届きます。詳細は参照元のページをご覧ください。
参照:多賀歴史研究所 なぜ元寇はおきたか

これから日本と大蒙古国とは、国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか。我々は全ての国を一つの家と考えている。日本も我々を父と思うことである。このことが分からないと軍を送ることになるが、それは我々の好むところではない。日本国王はこの気持ちを良く良く考えて返事をしてほしい。

完全に脅迫文じゃん。当時の日本にとって大きな問題となります。
しかも、「全ての国を一つの家と考えている」って、現在のグローバリズムに通ずるところがありますね。
強大な隣国からこんな手紙きたらあなたはどうしますか?

■ 受け取ったのは北条時宗
北条時宗は、若干18歳にて鎌倉幕府の8代目執権となります。
モンゴルからの手紙を完全に無視し、その後もモンゴル帝国からの使者を無視し続けました。

この頃の幕府は将軍ではなく補佐役である執権が権力の中心でした。
文永元年(1264年)14歳で執権の補佐を務める連署に就任
文永3年(1266年)惟康親王の擁立することで、宗尊親王のクーデター計画を未然に防ぐ
文永5年(1268年)フビライからの国書を持ってきた使節が、大宰府を訪れる。
文永6年(1269年)時宗は18歳で執権となります。

「なろう系」主人公ですか?^^;

■ 時宗は非礼で無能だったのか?
時宗は、度重なるフビライからの国書をすべて無視しました。
「さすがに無視は…」と朝廷が作成した返牒案すら採用しませんでした。

なお、1回目の元寇後、降伏勧告にきた使者をも処刑しています。

その最中においても、大田文(土地台帳)の作成、御家人の所領譲渡制限、異国警固体制の強化、異国調伏の祈祷などを指示しました。滅ぼされた高麗残党からの援助要請をも黙殺しました。
文永8年(1271年)、モンゴルの使節が再来日して武力侵攻を警告すると、弐氏をはじめとする西国御家人に戦争の準備を整えさせ、異国警固番役を設置しました。

■ あなたは同じ決断ができるか?
「国書自体は丁寧であり、無視した時宗のせいで戦争になった」という言説もありますが、白村江の戦(663年)以来、日本は外敵との大きな合戦がなかったことを考えると、とても大きな決断だったと思います。

無視しただけではなく、しっかり準備されていた点もリアリストであり、征服された国がどのような状況であるかという情報を入手していたと思われます。2度にわたる元寇に日本は耐え抜き、時宗は全面指揮を務め上げました。そんな重責の負担からか、32歳の若さで死去してしまいます。


次回は、壱岐・対馬の現地での研修の様子をお伝えし、元寇の戦闘の実態について振り返りたいと思います。
※観光要素もあるので政務活動費は使用しておりません。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
素敵な1日でありますように。
ご意見・ご感想はこちらまで↓
takuya_nagata_1026@yahoo.co.jp

•━━━━━━• ∙ʚ🐤ɞ∙ •━━━━━━•
各種SNSもフォローを宜しくお願いします。
エックス(旧ツイッター)
Facebook
インスタグラム
LINEオープンチャット(ニックネームで参加可能)
•━━━━━━• ∙ʚ🐤ɞ∙ •━━━━━━•

この記事をシェアする

著者

長田 たくや

長田 たくや

選挙 川西市議会議員選挙 (2022/10/16) [当選] 1,680 票
選挙区

川西市議会議員選挙

肩書 参政党の市議会議員で薬剤師でもあります
党派・会派 参政党

長田 たくやさんの最新ブログ

ホーム政党・政治家長田 たくや (ナガタ タクヤ)【研修報告】 元寇:最前線の地①~壱岐・対馬~ 【開戦前】

icon_arrow_b_whiteicon_arrow_r_whiteicon_arrow_t_whiteicon_calender_grayicon_email_blueicon_fbicon_fb_whiteicon_googleicon_google_whiteicon_homeicon_homepageicon_lineicon_loginicon_login2icon_password_blueicon_posticon_rankingicon_searchicon_searchicon_searchicon_searchicon_staricon_twitter_whiteicon_youtubeicon_postcode