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森山 英樹 ブログ

浜田聡参議院議員私設秘書森山英樹の自己紹介

2023/9/25

浜田聡参議院議員の私設秘書森山英樹です。

今回は自分ついて書いてみようと思います。

 

僕は1973年に生まれました。第二次ベビーブームの世代で、今の現役世代では最も人口が多い年代です。

小学校、中学校の義務教育は昭和の時代に受けました。80年代の日本は勢いがあってジャパン アズ ナンバーワンという本が70万部も売れてベストセラーにもなりました。

高校生になった年は平成元年(1989年)でした。

冷戦が終わって日本が経済的に苦労する時代が始まります。

1989年6月には中国で天安門事件が起こり、同年11月にはベルリンの壁が崩壊しました。そして1991年にはソ連が崩壊しました。当時は、ニュースステーションやニュース23を一生懸命見ていました。その流れで、大相撲ダイジェストや「やっぱり猫が好き」、ベストヒットUSA、IQエンジンなどの深夜番組を見ていました。テレビ全盛の時代でした。

 

失われた30年と言われますが、それは平成元年(1989年)に始まりました。まず、その年に日銀が金融引き締めをはじめました。翌1990年には大蔵省による不動産融資に対する総量規制が実際されました。株価のピークは1989年、不動産のビークは1991年でした。

リストラという言葉が流行りだしたのはこの頃だったと思います。

 

当時、日本は終身雇用制であり、従業金が解雇(クビ)されることは稀でした。クビとなったら大事です。表現を軟らかくして「肩たたき」と言っていました。

それが、定着してくると今度は「リストラ」と言ったのです。リストラクチャリング。再構築という意味だったと思いますが、実体は首切りでした。

景気は悪くなっていましたが、日本は大丈夫だろう、景気循環の波で落ち込んでいるがまた回復するだろうと多くの人が思っていました。

 

僕は家から離れたところにある高校に通っていたため、行き帰りの電車の中では兎に角本を沢山読みました。「右大臣実朝」以外の太宰治の全ての小説と司馬遼太郎の忍者ものを除く長編小説は殆ど読みました。「竜馬が行く」に出てくる陸奥宗光に憧れて、外交官になることが夢でした。

大学はなんとか法学部に入ることができました。当時、土地神話もまだ生きていたこともあって大学1年生で「宅建」を受験し、合格しました。滅茶苦茶勉強しました。

大学2年は奨学金をゲットして留学することを目標にTOEFLを受けました。目標点には達しませんでしたが、ロンドンに3週間短期留学をして、英語を話すコツを自分なりに身につけました。

大学3年生になると国際法のゼミに入りました。外交官試験は合格率が非常に低く、合格者の大学名を見ても、東大・京大・早稲田・慶応と一流校ばかりでしたので、外務省専門職試験合格を目指しました。20歳から30歳まで受験することが可能な試験だったため、10回受ければ、合格するだろう、と考えて就職浪人も覚悟で試験勉強にのぞみました。

大学3年と4年の2回受験して、これは30歳まで続けても合格は無理だと思いました。それに長い人生の中で、新卒で就職できるチャンスは大学4年の時しかありません。やはり、就職浪人して親に負担を掛けるのも現実的ではないと思いました。就職しても、外交官になりたいという意志が強ければ、勉強を続けてまた受験すれば良いとも考えました。

そこで大学4年の8月から就職活動をしました。外務省専門職試験1本に絞っていたため、一般の就職活動はしていませんでした。就活を開始して直ぐに分かったのですが、殆どの企業は採用活動を終了していました。僕の記憶では、大学4年男子の就職氷河期の最初の年でした。そして、インターネットを活用しない就活の最後の年でした。

父に相談して、父の紹介で製薬会社に就職が決まりました。コネ入社ですが、従業員50人くらいの町工場のような小さな小さな製薬会社でした。

その会社にとって僕は初めての新卒採用でした。従来その会社は、職安の紹介で従業員を採用していました。売上の8割を1製品でまかなっている会社でしたが、その薬が安定して売れていました。残業は禁止の会社でした。最初に配属になった事務室には経理の次長と総務の次長がいました。50代後半という印象でした。経理次長は会長、総務次長は社長のお世話係と言われていました。経理の次長が大部屋で、ほとんど泣いたような状態で愚痴を言っていたのが印象に残っています。会長に理不尽な扱いを受けていたことが原因だったようです。そのような扱いを受けても転職することができないため、生活のために我慢している様子でした。こんな人生はイヤだと思いました。

 

その会社にはコンサルタントの人が出入りしていました。40歳で独立し、契約社員として雇われていた人でした。僕はその人にあずけられました。これが僕にとっては非常に幸運な出会いでした。その後、その方が亡くなる2011年まで15年間彼に師事し、沢山のことを教えていただきました。

その人は、外資系の製薬会社の営業(MR)として働き、本社に抜擢されて30代で人事課長となったキャリアの人でした。前の会社ではリストラをしてきたとのことでした。外資系の製薬会社といっても従業員の殆どが日本人であり、1990年代にリストラをしたのは、業界でも先駆けだったようで、非常に話題になったそうです。しかも、指名解雇だったそうです。退職金を上乗せし、再就職を支援するなどかなり手厚い対応をしたそうですが、解雇を言い渡したときには「こどもが受験生だから」などと泣きつかれたり、後にかなり恨みもかったそうです。

本社の人事にいた人ですが、裏で手を回して組み合い設立にも尽力したそうです。

それらのことをして、会社を辞めた、とのことでした。解雇される側も大変だけど、解雇する側も大変なんだなあ、と思いました。その人はKさんという人でした。

 

新卒で入社した会社には1年いましたが、ここにいては社会人として成長できない、という危機感をもって1年務めた1997年3月に退職しました。次の就職先はなにも考えていませんでした。世間しらずにもほどがありますが、勢いにのって辞めて本当に良かったと今でも思っています。

既に契約期間が過ぎて会社を去っていたKさんに連絡をして会社を辞めたことを報告しました。Kさんは独立して人材派遣の会社をやっていたので、「力になれるかもしれない」といって僕と面談してくれることになりました。

これからどうする?と聞かれ、僕は「本が好きなので書くことを仕事にしたい」と言いました。Kさんは「俺もその世界に詳しいわけではないが、物書きって食えないらしいぞ。お前は一度、製薬業界に足を踏み入れたのだから会社は変わっても製薬業界で生きていった方が一貫性があってよい」というようなことを言われました。

Kさんの下で働いていたときには、色々なことを教わりました。「話法」というものが存在することもその時初めて知りました。営業というのは、知識がない人に売ることが簡単で、専門家を相手にする領域ほどレベルが高い。医師という専門家を相手にするMRという仕事は自分の能力を高めるためには非常に恵まれた仕事だということも教わっていました。

そのようなこともあって、第二新卒という扱いで外資系の製薬会社に再就職することになりました。

新卒で就職した会社をたった1年で辞めたことに強い負い目がありました。その分、自分を拾ってくれた、そして尊敬するKさんが紹介してくれた2社目の会社にはとても感謝をしました。中学生の頃以来化学の勉強をしたことがありませんでしたが、3か月の研修合宿では猛勉強をしました。頑張った結果、最も厳しいと言われていた広島支店に配属になりました。

当時はパワハラという言葉もない時代でした。アクの強い先輩がおり、嫌な思いをしましたが、他の人はとてもよくしてくれました。広島の上司は「わしがお前の広島の父親になっちゃる」といって、本当に可愛がってくれました。

しかし、その会社は、より大きな製薬会社に吸収されることが決まっていました。どうなるんだろうなあ、と思っているとある日、全社員に希望退職の通知がきました。社会人2年目にしてリストラの対象になったのです。その後、奇跡的な出来事があり、全員解雇は取り消しとなり一部は採用されることになりました。僕は面接を経て、吸収した会社に転籍することになりました。

どんなに優秀な人でも40歳以上の人は問答無用で解雇でした。

若い人間でも、僕の同期で、愚痴ばかりをいって努力していなかった人間は転籍できませんでした。

本社のマーケティング部の人間は早々に転職を決めて会社を去って行ったという噂を聞きました。

上司はリストラされましたが、明るく平然としていました。次の会社に移って、生活レベルをさげることなく活動を継続していました。

上司と同年代で、仕事をせずにさぼってばかりいたオジさんは再就職先を見つけることもできず、でも娘に「お父さんリストラされた」と言えず、毎朝「行ってきます」といって車にのってパチンコ屋にいっているという話を聞きました。

この経験から、どんなにその会社を愛して会社のために尽くしても、会社自体がなくなってしまうことがある、ということを学びました。

本社勤務の専門性の高い人は、直ぐに転職先を見つけることができましたし、営業の仕事でも真面目にコツコツ働いて営業力のある人は、やはり、いざとなっても生活に困らないのだ、ということも学びました。

 

転籍した会社に僕は馴染むことができませんでした。先輩たちは可愛がってくれましたが上司が嫌味な人でした。僕等吸収された側の人間は総じて辛い思いを味わっていました。会社の合併って大変だけれども、吸収される側は本当に大変だなあと思いました。

入って早々にその会社を辞めたいと思いました。

僕は東京で生まれて東京で育ち、親も友だちも東京にいます。大学を卒業して小さな製薬会社に就職しましたが、将来に不安を感じてより大きな製薬会社に転職しました。大きな会社に入ると言うことは、全国展開しているので全国に配属になる可能性があるということでした。僕は2社目の会社で広島に配属になり、転籍で入った3社目で岡山に配属になりました。

営業として転職したとしても、どこに配属されるかわかりません。東京に帰るためには本社の仕事を得ることがよいと考えました。師匠の勧めもあってマーケティング部を目指すことにしました。

師匠からはマーケに入るために「30歳までにTOEICで750点とる。マーケの本を片っ端から読んで勉強する。営業の仕事で成果をあげる」という方針をさずかりました。

3社目の会社には3年いました。初めは小さな市場を任されましたが、成果をあげて岡山市内の大きな施設も担当することになりました。仕事の仕方もやっと分かってきた頃にKさんから連絡がありました。「転職しろ」というのです。仕事の面白さも分かってきたころだったので断ったのですが「東京に帰してやろうと思ってな」と言われて、直ぐに転職しました。

が、配属先は東京第三支店長野営業所でした。騙された、と思いましたが、その会社は憧れのKさんがいた会社の後継会社(合併して別の会社になっていた)でしたし、岡山に比べて長野でしたら、車で東京に帰ることも可能です。それに僕は当時まだ27歳でした。30歳までに東京に帰ると自分で決めていたので、3年頑張って東京に帰ろうと決意し、4社目の会社に移りました。

岡山の時の上司は嫌いでした。師匠のKさんからは「憎い上司への復讐方法を教えてやる。そいつの仕事を全部かわりにやってやるんだ。人間は怠け者だからどんどん仕事を任せるようになるだろう。上司の仕事や上司の望む仕事ができるようになった頃には力がついて異動や転職が可能になっている。ある日突然辞められたその上司は、いままで怠けていたため、再起不能になるだろう」ということを教わっていました。

僕は岡山時代も頑張って成果も上げましたが、上司は評価してくれませんでした。転職には上司に対する仕返しの意味もあったので、迷いはありませんでした。

辞めると伝えて辞表を渡すと上司は掌をかえしたようになりました。僕はおそらく業界でもトップクラスで日報、報告書を書く人間でしたので、上司の上司である支店長からは可愛がられていました。支店長が広島から来て引き留めてくれましたが、僕の決意が固いことが伝わって、退職することになりました。引継ぎのため上司と車にのって移動しました。上司は「僕はまだ君が退職することを許可してないからね」と言いました。会社を辞めるのにあなたの許可は必要ありませんよ、と心の中で思っていましたが黙っていました。

上司を選ぶことはできませんが、自分に実力があれば、会社を変えて、嫌いな上司とさよならすることができると学びました。

 

僕が学生の頃は、転職は必ずしも良いことと社会的には評価されていませんでした。転職する度に給料は下がり、労働環境も悪くなるので、また転職をして、どんどん履歴書を汚していく、と言われていました。

が、それは内資の話でした。幸いなことに外資系製薬会社が日本にどんどん進出し、市場を開拓している時期だったため、僕は外資の会社を渡り歩いて給料も労働環境もどんどん良くしていくことができました。

 

長野に配属となった会社は世界ではトップ3,日本市場でもトップ10に入るくらいの大きな会社でした。僕が入社したときに発売になった新薬が大ヒットしてどんどん会社は大きくなり、変化していきました。

経費は使い切れないくらいありましたので、講演会、研究会を沢山企画して実行しました。当時はまだ接待の制限もなかったので、3次会、4次会まで先生(医師)と飲むこともありました。接待がないときでも同僚と飲むことが多かったので、しょっちゅう飲み歩いていました。

そんな状況でしたが、30歳までにTOEICで750点をとって転職して東京に帰るという目的があったので、勉強は続けていました。ただ、当時は勉強の仕方をまだ知らなかったため、結構苦労しました。

TOEICのテストは地域によっても異なるのですが、年に複数回試験が実施されます。とにかく、準備ができていなくても、毎回の試験に申し込んでテストを受け続けました。

30歳前後でTOEICで870点を取ることができました。30歳になった時は長男が生まれました。何度か転職も試みましたが上手くいきませんでした。

Kさんに文句を言ったら「英語を喋ることができる奴が増えて世の中変わっちゃったんだよ」と言われました。32歳の時に次男が生まれました。長男は非常に手のかかる子でした。後に自閉症と診断をうけて納得しましたが、分からないときは大変でした。同僚との付き合いをやめて長男の面倒を見ることにシフトしたこともあり、会社では孤立しました。

仕事も頑張り、TOEICでも目標点を超えて、マーケの本も読んできて、なんども挑戦したけれども東京に帰ることができませんでした。八方塞がりに感じて、ある日、気持ちが切れました。本当に辛かったので、良くしてくれていた顧客でもある医師に話したところ、「これをやんな」と言われてアンケートのようなものに答えたら、「軽症うつ」と診断されてSSRIを処方されました。妻とも相談して僕はその抗うつ薬を飲みませんでした。

とにかく本を読みまくって、講演を聞きに行ったり、セミナーを受講したりしました。読書法、勉強法のセミナーを受けたことが転機となりました。情報の取り方がわかって仕事にも好影響となって、また、活気にみちた状態で仕事ができるようになりました。今度はKさんのツテではなく自分で見つけた会社にチャレンジして、転職することに成功しました。

本社への転職は失敗し、営業の仕事ではありましたが、東京に配属となりました。

長野に配属となってから7年が経っていました。もう、東京に帰ることはできない、一生、自分が望んでいない土地で過ごすことになる、と絶望した時期もありましたが、結局、望みは叶いました。諦めなければ、多少の時間のずれはあってもなんとかなるものなんだなあ、と思うようになりました。

長野にいた時に所属していた会社は、僕の人生の中で唯一組合があった会社でした。Kさんが作ったと言っていた組合でした。

東京第三支店長野営業所だったため、組合の会合は東京でありました。「組合費で毎月東京に行けるぞ」という先輩の言葉にのって1年間組合の活動もしたことがありました。

その会社では、本当に仕事をしない先輩を見てきました。ああいう人間を守るために組合が存在するのはオカシイと僕は感じました。

 

東京に戻って所属した会社は、世界的には超老舗の会社でしたが、化学会社として日本に定着しており、製薬業としては成功していない会社でした。それが画期的と言われた抗がん剤の上市に向けて、新たに製薬事業部を立ち上げ、新規に人を集めている会社でした。まあ、ベンチャー企業といって良いと思います。

それまでの僕は一般薬を売るMRでしたが、抗がん剤を売っている事業部の本社スタッフやMRは専門性が高く、プライドの高い人の集まりでした。

僕は東京に帰してくれたその会社に本当に感謝していました。愛着も感じていたのですが、しばらくすると、営業部長、マーケティング部部長、プロダクトマネージャー、教育担当部長が次々とクビになっていったのです。のちに分かったのですが、合併のためのリストラでした。

僕等はオープニングスタッフみたいな感じで、全国のMRが東京に集められて本社で2か月研修を受けていたため、本社の人とも顔見知りでした。本社の人は、ある意味憧れの対象でした。

それらの人々が次々と突然いなくなっていったのです。不安でしたし、新薬発売が遅れて暇だったので噂話の対象となっていました。

僕は、その会社を3年で辞めて、また別のベンチャーの会社に転職して、同じような経験をしました。最初は、もちろん動揺しましたが、それらの人がいなくなっても僕の生活は依然として続いていました。多くの場合は、次に来た人は、前の人よりももっと良い人でした。

辞めていった人たちも、新しい会社でより活躍していることを知りました。

会社と従業員にも相性があるので、無理にしがみつく必要はないんだ、と思うようになりました。

東京に帰って最初の会社では学術テスト、営業成績、市販後調査でトップの成績をとり、また、リストラで本社が人手不足だったこともあって、僕は希望のマーケティング部に異動となりました。正確には事業部長のアシスト(秘書)という肩書きでした。

引き上げてくれた事業部長には感謝しましたし、とても素敵な人で、この人も僕の師匠となりました。マーケは憧れの仕事でしたし、とても尊敬できる上司でしたので、滅茶苦茶働きました。始発から終電まで働いていました。しかし、その会社は合併した会社との社内闘争、協働プロモーション会社との関係で難しい会社でした。事業部長はめざましい成果をあげたのですが、その成果を横取りするような会社の扱いがあって、その部長は会社をさりました。後ろ盾を失って僕は非常にストレスの多い環境で働くことになりました。毎日毎日ボロボロになるまで働いて危険な状態になりました。辛いと思ってもルーチンワークだけをする存在になっていました。考えることができなくなっていたのです。師匠のKさんと姉が異変を感じて、そこから逃げるようにアドバイスをしました。僕にはやめる力が残っていませんでした。2人は僕をしかりつけました。それで目が覚めて、会社を休んで転職活動をはじめました。幸運にも転職することができて、東京に帰って1社目の会社を去ることができました。

イギリス人の副社長が僕のことを気に入っていたので、引き留めがありました。事業部長と人事部長に会議室に閉じ込められて2時間くらい話し合いがありました。当時僕は、うつ状態だったので、非常に辛い状態でした。その場をなんとか逃れて、1週間後になんとか辞めました。

次の会社に転職するまで1か月、有休消化期間がありました。それでも回復には不十分で半年くらい失語症のような状態になりました。思いがあってもそれを言葉にしないのです。言葉にしたいという意欲もわきませんでした。ああ、言葉を発するのってエネルギーが必要なんだなあ、とその時はじめて知りました。

あの時、Kさんと姉がしかりつけてくれなければうつ病になっていたかもしれません。過労からうつ病になって自殺するケースが多いことを考えると、僕もかなり危険な状態にいたのだろうと思っています。

 

次の会社では、最初の年は苦労しましたが、その後は総じて営業成績も良く平和な時期が長く続きました。ベンチャー企業で優秀な人材を集めるために、社員にお金を沢山使う会社でした。給料も良かったですが、株を社員に配っていました。新薬の大成功によってその株が大高騰しました。株ですが給料として支給されていたため、驚くくらいの税金がかかりました。40歳過ぎで、平均的なサラリーマンが一生掛けて支払う分の税金を支払ったと思います。

僕はその会社で営業成績が良かったのでかなりの自由が与えられていました。7年間在籍していた後半の3,4年は有給休暇を100%使用していました。

前の会社で出世して大変な目にあったため、偉い人には近づかないようにしていました。

その結果、社内テスト、講演会数、説明回数、営業成績などでトップになっても昇進しませんでした。元々MRになりたくてなった仕事ではありませんでしたし、Kさんのように独立して自由に生きたいと思っていたので、会社に対して執着がなくなりました。

「もう辞めたい」と思っても、条件が良すぎて辞める決意がつきませんでした。結果、なかば投げやりになって働きました。思うように仕事をしたのです。公平に競合品の情報も提供しました。その結果、最初は苦労しましたが先生の信頼を得て、あとは楽に仕事ができるようになりました。相手が医師だろうが薬剤部長だろうが、理不尽なことを言われたら喧嘩腰で反論しました。騒ぎになったら責任とって辞めればよいと思っていました。同じ調子で遠慮無く本社の人とも喧嘩しました。すると信頼や評価がさらにあがったのです。サボっていようが会社を休もうがなにも言われなくなりました。

気が付けば、良い年になっていました。MRとして経験できることはほぼ全て経験してきました。尊敬できる上司や先輩はほとんどいなくなっていました。

下り坂の人生しかイメージすることができませんでした。心がどんどん腐っていくのが分かりました。

妻に「会社を辞めたい」と言ったら「いいよ」と即答されました。でも、辞められるとは思いませんでした。

それから半年くらい経ったときに、どうしてもイヤになってまた妻に「会社を辞めたい」と言ったら「いいよ」とまた言われたのです。

今度は、「なぜ?」と聞きました。すると妻は「私が代わりに働きにでるよ。就職経験のない40歳過ぎの女ができることは介護の仕事くらいしかないけど」と言ったのです。

会社を辞めて独立することは24歳の時からの目標で20年くらい考えてきました。脱サラした理由も100コくらい挙げられると思います。なので、そんなに簡単ではなかったのですが、その妻の一言が最大の後押しとなって僕は脱サラすることにしました。

やめて何をするかは何も決まっていませんでした。

退職の挨拶をして回ったとき、フリーランスとして生きていく、と僕が言ったことに対して「絶対にそんなことは無理だ。できっこない」と力一杯言った人が2人いました。

1人は医師だったので聞き流しましたが、1人は飲み仲間だったので「Tさんは、独立を試みて失敗したことがあるのですか?知り合いにそういう人がいるのですか?この件に関して研究を続けてきたのですか?」と質問したところ、答えは全て「否」でした。何の根拠もなく、人の選択を否定していたのです。こういう人をドリームキラーといいます。この手の人間とは片っ端から縁を切ってきました。

2018年に脱サラをして、5年が過ぎました。この先はどうなるか分かりませんが、少なくともこの5年間僕は自由に生きてきました。「できっこない」と言われましたが5年間はできました。本当に楽しく、幸せな5年間でした。

僕は45歳で脱サラしましたが、退職年齢は国や会社に決められるものではなく、自分で決めて良いモノであると考えています。

自分自身の生活のため、家族のため、好きでもない仕事を歯を食いしばって頑張ってきました。

脱サラしてからの5年間は、家族を中心に生きてきました。父母の通院サポート介護をし、2人の希望通り自宅で最期を看取りました。障害児の長男の送り迎えを毎日つづけ就職先も見つけました。次男が不登校になりかけて2年間寄り添ってきました。

家族が大変な時に常に側にいてあげることができて本当に幸せでした。

来年、次男の大学受験が終われば、介護・子育ては一段落だと思っています。

 

脱サラした翌年の2019年、僕はNHKから国民を守る党の党首立花孝志さんと出会いました。コネもなにもありませんでしたが、MRの時に培ったノウハウを使って信頼を積み上げてきました。立花さんの著書2冊の制作に携わることができました。その後、NHK党参議院議員浜田聡さんの私設秘書にしていただき、党の綱領を書く仕事をいただきました。その後も、細かい仕事を続けて、今は政策(マニフェスト)を作る仕事の一翼を任せていただくようになりました。

政治理念や自由を愛する生き方に関して僕は立花さんに共感しています。浜田さんも自由を尊重している人ですし、僕は政策に関して浜田さんと99%一致していると考えています。

政治理念、価値観、政策で一致している人の下で働くことができて本当に幸せです。立花さんのことも浜田さんのことも僕は本当に尊敬しています。

製薬会社をやめる直前、尊敬する人もいなくなり、新しい経験もほぼなくなって下り坂の人生しかイメージできなかった僕からすると、今の生活は奇跡です。

来年はもっと自由な時間が増えるので、どんな人生になるのかいまから楽しみです。

2年後に浜田さんが再選するとは限りませんので、今の経験を大切にしたいと考えています。

 

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