2022/10/16
このブログのタイトルに掲げた「コロナ禍で侵害された日本国民の権利」は本来は副題です。
本当の書名は「自由主義の基盤としての財産権 コロナ禍で侵害された日本国民の権利」です。

「コロナ禍で侵害された日本国民の権利」のほうが内容に合致していると思いますし、読んだ人の心に刺さるのではないか、と思って本来の副題を、ブログのタイトルに使いました。
「コロナ禍で侵害された日本国民の権利」ですよ。僕は、2020年初頭からのコロナ対策機関はひどい期間だったなあ、と思っているので、この本を読んで改めて当時を振り返って、心を打たれるものがありました。
- 全国すべての小中高校について3月2日から春休みまで臨時休校するように要請した。突然の臨時休校要請は、親や学校関係者らの対応を混乱させた。また、ライブイベントは急遽中止になり、興業関係者にも混乱が及ぶ。
- この緊急事態宣言期間において、明らかに国民はよく協力し、「都市封鎖」と同じ状態を出現せしめた。
- 尾見会長は、コロナの感染拡大を防止する対策として、忘年会や新年会の自粛、食事の際にもマスク着用、五人以上の会食を控える、帰省の自粛など、国民への自粛要請を次々に列挙していく。
- マスク着用の徹底、外出自粛、時短営業と数多くの制約が「コロナの感染拡大防止のため」という大義名分で進められた。
僕の息子は中学3年生の時の運動会、学芸会、修学旅行、卒業旅行などすべての行事が中止となって、それらを経験することができませんでした。
僕の母は友だちと会って出かけて、買い物をして、おしゃべりをすることが大好きな人でしたが、コロナ禍での巣ごもり(Stay home)期間でストレスをためて抑うつ状態になり、急激に衰えました。もう一度元気になりたい、秋になったらコロナも落ち着くだろうからまたみんなで集まろうね、と友だちと約束していましたが、その約束を果たすこと無く先月亡くなりました。自粛と母の健康状態の因果関係の証明は出来ませんが、あのコロナ自粛がなければ母はもっと楽しい時間を過ごすことが出来ていただろうなあ、としみじみ考えます。
人との交流を妨げられ、人生から楽しみを奪われることは、人間の心身に大きな影響があることに気付いた期間でもありました。
あれらの自粛要請が科学的根拠に基づくものであるのなら仕方が無いと納得することが出来ます。でも、僕にはそうは思えませんでした。そのことをこの本は代弁してくれていました。
- 当然、これらの国民の権利を制約する措置には、厳密な科学的根拠が求められる。
- 現在の日本政府によるコロナ対策は「ペストやエボラ出血熱のように新型コロナは危険な伝染病かもしれない」との仮説に基づいて行われている。これは絶対に疎かにできない、議論の大前提である。
- 子供が感染源となった集団感染はほとんど見られず、学校などの閉鎖によるコロナ感染流行の阻止効果は乏しい一方で、閉鎖は子どもたちの心身を脅かしている
- コロナ禍の影響は、国民の家庭生活にもおよぶ。2020年度のDV相談件数は19万30件で、前年比1.6倍に急増した。さらに今後も懸念されるのは、自殺者数の増加である。従来、経済的な理由が背景だと考えられてきたのが中高年層の自殺だが、コロナ禍で目立つのは子供や若年層、女性の増加である。コロナ禍の自粛は、これほどの犠牲を招いた。それを強いた合理的根拠は何だったのか。いまだに十分な検証が行われているとは言いがたい。
- 新型コロナによる被害が欧米と比較して圧倒的に低いという数字が示されているにもかかわらず、日本政府のコロナ対応には変化が見られない。日本政府はコロナ禍が一年以上経過しても「ペストやエボラ出血熱のように新型コロナは危険な伝染病かもしれない」という仮説を捨てずに、令和3年7月12日には4度目の緊急事態宣言を実施することになる。さて、これが科学的議論に基づいた政策であろうか。
- 日本政府は「何のために」を何も証明しないまま、コロナ対策を決めている。新型コロナウィルス対策で国家経済を止める合理性は何か。そもそも新型コロナウィルスはペストのように危険な伝染病なのか。この2つの論点を証明した議論があっただろうか。
ただ、僕はあれら一連の政府の対応に半ば諦めのようなものを感じています。科学的根拠があろうがなかろうが、多くの国民がパニックのような状態になり、非科学的であろうが、政府の対策・介入を求め、それに協力したからです。
これに関しても、この本は、キチンとしてきしていました。
補償のない強制力は「自粛警察」を助長する
P.149法的には強制力のない要請にすぎなかった緊急事態宣言下での人流抑制、企業経営を含む民間活動の制限は、いかにして強制力を得たのか。政府の要請に実効的な力を与えたのは、個々人の意識と、それらの集合としての社会的圧力である。
まず、個人単位で言えば、日本国民の驚異的な我慢と協力である。マスクの正しい着用から手指の消毒まで、政府の定めた基準を満たしていない他者に対する「ふさわしい対応」の強要は、時に傷害事件に発展した。
自粛要請に応じない店に張り紙や落書きをしたり、あまつさえコロナ患者を出した銀行に石を投げ込むなどの事例さえある。店舗の経営者が客に退去を求めて刃物を持ち出すなど、異常としか言いようのない事件も起きた。広く社会に目を転じれば、感染拡大の抑止よりも、こうした社会的圧力に起因する暴力に遭遇しないために政府の規制に従う判断がなされた面もある。生活上、あるいは経営上の損失を抱えるなど個人や企業の事情に関わらず、社会の体勢に従うことを強要される。
これを同調圧力という。
これこそが問題だと思うのです。
日本は同じことを過去にも経験しているではないですか。帝国陸軍は非科学的だったとか批判していた人たちもいたと思うのですが、結局、また同じことをしている、と思うのです。
ただ、中途半端な知識なので僕はうまくそれを言葉に出来なかったのですが、この本はそれを見事に表現しています。なんて良い本なのでしょう。
政府の命令で国民に制約を課す「国家総動員法」
P.99
「ぜいたくは敵だ」のスローガンでよく知られる軍需物資と関係のない奢侈品に対する禁令から、大戦末期に行われた家庭の鍋釜の供出まで、国民の私有財産は政府の命令により多くの制約を受け、また接収された。細かな生活にまで関わる社会全体への統制が機能した要因として、法律にある罰則の他、統制業務を事業として行う団体の登場や、地域の自治組織を通じた協力など、社会の同調圧力が反対や異論を圧し潰していったことも無視できない。統制強化で国民の自由が奪われる
P.102
昭和15年になると、「新体制運動」が盛り上がる。
結果として「日本中が一丸となって事変を戦っているのだから、不平不満を一切言わずに、自由を捨て財産を差し出し、政府の命令に従うべきだ」との風潮が国民のあいだで蔓延する。マスコミが煽り、国民に流行し、「逆らう者は非国民」に至った挙句、国土全体が焦土となったのは、つい76年前のことである。
あの頃と今回のコロナ禍での騒動は同じだと本書は指摘しています。
コロナ禍の中で行われた政府による民間への制約の中、「コロナ禍で私権を制限できないから、いつまでたってもコロナ禍が終息しないのだ」という主張を繰り返す者も多く見られた。しかし本書で述べてきたとおり、政府は好き勝手に私権を制限したのが実態である。いかなる私権制限を行っても、戦前は国土が焦土となったし、コロナは終息しなかったのが事実である。
では、どうすれば良かったのでしょう。やはり、科学的事実に基づいて政策を判断するべきであり、そのためには自由に議論できることが必要だと言います。
P.270
自由な議論が出来なければ科学的な議論は出来ません。だから「自由を縛れ」ではなく「自由な議論」を認めるべきだし、「財産権」という自由も認めなければいけない。如何に「自由」が大事であるかを救国シンクタンク所長としては発信していきたいと思います。
こういった主張はとてもNHK党的だと思いました。
倉山満先生が憲法草案作成のパートナーとして浜田聡参議院議員を選んだのは、タブーを突破するNHK党的体質に期待したのかなと思っていましたが、「自由主義」というキーワードで考えてみると救国シンクタンクとNHK党が組むのは必然なのかもと現時点では考えています。
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モリヤマ ヒデキ/歳/男
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