2026/6/20
「白子川」に残る新羅の記憶。
本日、大泉教会で「大泉学園町の歴史を知る」を開催し、80名を超す皆さんにご参加いただきました。講師は、1965年からこの地域に暮らし、市民活動にも長く携わってこられた和田あき子さんです。
特に印象深かったのは、身近を流れる白子川の名が、朝鮮半島の「新羅(しらぎ)」に由来するとされていることです。『続日本紀』には、758年に新羅から来た人々が武蔵国に移され、「新羅郡」が置かれたことが記されています。和田さんは、白子川がその境界にあたり、大泉学園町は新羅郡の周縁に位置していたのではないかとお話しくださいました。普段何気なく目にする川の名に、1300年近い交流の歴史が刻まれていることに、会場からも驚きの声が上がりました。
大泉学園町は、最初から一つの姿をしていたまちではありません。古代の渡来人、戦国期に移り住んだ武士団、江戸時代の小暮村、明治期の大泉村、大正期の学園都市構想、戦時中の陸軍士官学校、そして戦後に移り住んだ多くの新住民。異なる背景を持つ人々の営みが幾重にも重なり、現在の大泉学園町が形づくられたとのこと。
地域の歴史を学ぶことは、単に過去の出来事を学ぶことではありません。外から来た人と以前から住む人が出会い、時に葛藤しながら、新しい地域をつくってきた事実を知ることです。多様性こそが、このまちの歴史そのものだと感じます。
戦後、人口が急増した大泉学園町では、上下水道や道路、学校などの整備が追いつかず、「練馬のチベット」と呼ばれた時代もありました。それを変えたのは、住民の粘り強い行動だったとのこと。
学校新設を求める運動、PTAや生協の活動、家永教科書裁判への支援、ベトナム戦争反対運動、チェルノブイリの子どもたちへの支援、そして大泉図書館の藤沢周平コーナー設置。大泉には、地域の課題を自分たちの力で動かしてきた、豊かな市民運動の歴史があります。中島公園の平和記念碑には、戦争で亡くなった地域の283名の名前が刻まれています。記憶を残し、次の世代へ手渡そうとした市民の意思も、私たちが受け継ぐべき大切な財産です。
冒頭、私は「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」というマークトウェインの言葉を紹介しました。同じ出来事がそのまま再現されるわけではありません。しかし、恐れをあおり、社会を分断し、少数者を排除し、権力に都合の悪い歴史を消したり薄めたりする動きは、形を変えて何度も現れています。
戦争、排外主義、歴史修正主義が広がる今、地域史を学ぶことは、民主主義を守るためにも大切です。多様なルーツを持つ人々がともに地域をつくってきた歴史を知れば、「自分たちと違う人」を排除する政治が、いかにこのまちの歩みに反するかが分かります。
練馬区そのものも、住民の運動によって板橋区から独立した自治のまちとのこと。政治は上から与えられるものではなく、市民が声を上げ、記録し、対話を重ねることで動かすものだと改めて実感しました。
農地や緑、文化、平和の記憶を守り、市民の声が届く区政をつくる。強権ではなく対話を、排除ではなく共生を、忘却ではなく記録と継承を選ぶ。これこそ、大泉の歴史から私たちが受け継ぐべき政治だと考えます。
和田あき子さん、資料や写真をご提供くださった皆さん、運営を支えてくださった皆さん、そしてご参加いただいた皆さん、本当にありがとうございました。

The post 白子川はなぜ「白子」なのか 新羅から市民運動へ、大泉学園町の知られざる歴史 first appeared on 岩瀬たけしウェブサイト.
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