社会民主党 吉田忠智党首の任期満了に伴う党首選挙が1月12日に告示されましたが、吉田氏本人を含め立候補者が現れず、26日に「再告示」されるました。最終的には幹事長の又市征治(またいち せいじ)氏が立候補し、次期党首に就任することが決まったものの、当初は「立候補者ゼロ」という状況でした。
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異例かと思えた今回の「立候補者ゼロ」ですが、1945年に結党した日本社会党が、1996年に現在の社会民主党に形を変えて現在に至るまでの計70年以上の間に、党首(社会党時代は委員長)選挙に立候補者が現れなかったケースはこれが初めてではなく、過去に2回あります。
どのような状況でそうなったのか、歴史を振り返ってみましょう。
1985年に、衆議院の「一票の格差」に最高裁で違憲判決が出されたことを受け、政府与党は衆議院の定数を2議席増やす公職選挙法改正案を提出し、翌年に可決しました。
当時の中曽根内閣は支持率が高く、野党に不利になる衆参同日選挙となるタイミングでの衆議院の解散は警戒されていましたが、改正案では定数増の周知期間を30日とすることや、当時の官房長官である後藤田正晴氏らが同一選のタイミングでの解散は難しい旨の発言をしていたことから、同一選は回避されたものと考えられていました。
しかし、中曽根首相は6月の臨時国会冒頭で衆議院を解散。のちに「死んだふり解散」と称される力技でした。選挙は1986年7月6日に実施され、選挙の準備ができていない野党は大敗。社会党は衆議院では112議席から85議席と26議席減、参議院では44議席から41議席と3議席減らしてしまいます。この責任を取って当時の石橋政嗣委員長以下執行部は総辞職することとなり、8月11日に委員長選挙が告示されますが、その際には届け出する候補が現れず25日に再告示されました。
再告示にあたって衆議院議員で旧東京2区選出の上田哲氏と旧兵庫2区選出で副委員長だった土井たか子氏が立候補。9月4日と5日に投票、6日に開票が行われ、土井氏が80%以上の得票率を得て当選しました。社民党委員長としてのみならず、国政政党としては憲政史上初の女性党首となりました。
その後、「マドンナ旋風」による一時的な党勢回復や細川・羽田政権の発足、自社さ連立政権を経て、社会党は社民党に党名変更するなど激動の11年間をはさみ、珍事は再び起こりました。
1996年の衆院選に向けて党勢立て直しのために村山富市氏は党首を辞任。党首となって選挙の顔として戦うことができるのはやはり土井たか子氏でした。しかし同年の衆院選では新進党や民主党といった新興勢力の対等に埋没してしまい30議席から15議席と半減。野党のさらなる再編が進む中、連立政権の中で存在感が示せない一方で自民党に妥協しているように見える姿勢が旧来からの支持者の離反を呼んで党勢がさらに衰えてゆきます。
そんな状況にもかかわらず党内組織の改革が進まず、業を煮やした土井氏は1997年12月16日に告示された党首選挙に届け出をせず、翌1998年1月8日再告示されました。その間、社民党執行部は土井氏を必死に説得し、最終的に「政策審議会の改革と機能強化」「参院選への女性候補の登用」などの条件を提示して立候補を受け入れ、無投票で再選されました。
時代はさらに20年過ぎ、土井氏がこの世を去って3年半の月日が流れ去りました。社民党は2016年の参院選で得票率2%を上回り政党要件は2020年まで確保したものの、2018年現在衆参合わせて国会議員は4名。
党首を務めていた吉田忠智氏は2年前の参院選で議席を失ったまま今に至ります。今年1月12日に告示された党首選挙に吉田氏は非議員の立場で活動に制約があることを理由に立候補せず、20年ぶりの再告示となりました。次期党首に就任することとなった又市氏は社民党をよみがえらせることができるのか、引き続き動向に注目が集まります。
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