ウィキペディア「安保闘争」より
1960年1月に調印された「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(新安保条約)は、第34通常国会(いわゆる安保国会)に提出された。安保条約廃棄・安保改定阻止を目指す日本社会党は、国会外で盛り上がる大規模な運動と巧みに連携しながら、慎重な審議を大義名分に審議を引き延ばし、会期切れによる審議未了に追い込み、新安保条約を葬り去ろうとした。
事は社会党の目論見どおりに展開する。社会党議員による執拗な追及を受けた岸信介政権側の答弁が乱れたことで、国会審議は行き詰まる。それに疑念と不安を増幅させた革新勢力の国会外での運動が一層盛り上がる。焦燥感に駆られた岸政権は、一層高圧的な姿勢で新安保条約の承認を取り付けようとする。それが国会内外での革新勢力の抵抗をさらに強める。こうした(政府にとっての悪)循環がピークに達したのが、5月19日(20日未明)の衆議院本会議における、新安保条約の「強行」採決であった。
これを契機に、国会外でのデモは一気に沸騰する。6月4日の「安保改定阻止第1次実力行使」には全国で約560万人が、6月15日の「同第2次実力行使」には約580万人が参加したと言われている。しかし、こうした今とは比べ物にならないほど大規模なデモ活動も空しく、30万人を超える人々が国会周辺を取り囲む中、6月19日午前零時に新安保条約は自然承認となった。23日に批准書が交換され、新条約が成立すると、岸首相は「人心一新」と「政局転換」を理由に退陣を表明した。
血は争えないとでも言うべきか、祖父の岸元首相が締結にこぎ着けた新安保条約をめぐる騒乱と、孫の安倍首相が成立を目指す安全保障関連法案をめぐる喧騒には、類似点が2つある。
首相官邸ホームページより
1つは、「出口」を予め念頭に置いて国会審議を行ったことが、政府の説明不足と国民の理解不足を招き、混乱に拍車をかけたということである。安保条約に関しては、予定されていたドワイト・D・アイゼンハウアー大統領の訪日までに新安保条約の国会承認を済ませることから逆算して、5月19日に「強行」採決が行われた。日本国憲法第60条2項及び第61条の規定により、その日に衆議院を通過していれば、参議院の議決がなくても、30日後(大統領の訪日直前となる6月19日)に自然成立するためである。一方、安全保障関連法案に関しては、4月の訪米時に行ったアメリカ議会両院会議における演説の中で、安倍首相が「この夏までに、成就させます」と「国際公約」したことが、国民の間での理解が必ずしも深まっていないにもかかわらず今国会(第189通常国会)での成立を急ぐ背景にあると言われている。
もう1つは、一点目とも関連するが、安保条約や安全保障関連法案の内容に対する反対よりもむしろ、岸元首相個人や安倍首相個人に対する不信が、反対の声を大きくしている側面があるということである。すなわち、国会審議等を通じた政府の説明が十分とは言えないがため、憲法改正を旨とする保守反動的な岸元首相が締結を目指すものであるから新安保条約は危険だ、「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍首相が整備を目指す安保法制であるから危険だといった、両首相のイメージに基づく反対が不必要に広がったということである。これは、安保条約に関しては、条約が批准され岸首相が退陣を表明した後、潮が引いたかのようにデモが一気に鎮静化したこと、安全保障関連法案に関しては、先に見たように「首相が信頼できない」という理由で内閣不支持に回る人が多く出たことからうかがえる。
>> 60年総選挙は自民党の圧勝、勝因は?(1960年安保と2015年安保②)へ続く
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