さとう しゅういち ブログ
五四運動 1919年の問いを、107年後の私たちはどう受け止めるか
2026/5/4
1919年の問いを、107年後の私たちはどう受け止めるか
五四運動から107年。東アジアの近代史に刻まれた1919年は、単なる過去の記念日ではない。中国の五四運動、朝鮮の三一独立運動が連鎖したこの年は、アジアの民衆が「帝国の論理」に初めて大規模に異議を唱えた転換点であり、同時に日本が「近代化の象徴」と「抑圧の主体」という二つの顔を露わにした年でもあった。
当時の世界は、第一次世界大戦後の混乱と、ウィルソンの「民族自決」がもたらした期待が交錯していた。ロシア革命の衝撃も重なり、アジア各地で民衆が政治の主体として立ち上がる条件が整っていた。三一運動は日本の植民地支配に対する朝鮮の民衆蜂起であり、五四運動はパリ講和会議で山東権益が日本に認められたことへの中国の抗議であった。両者は組織的に連携していたわけではないが、「帝国の時代に終止符を打つべきだ」という同時代の空気を共有していた。
しかし、この二つの運動を理解するうえで欠かせないのが、日本が地域によって全く異なる姿で受け止められていたという歴史的事実である。
日露戦争の勝利は、イランやトルコをはじめとする西アジアの知識人にとって、欧州列強に抗する「希望の星」であった。非西洋国家が近代化を成し遂げ、帝国ロシアに勝利したという事実は、植民地化の圧力に苦しむ地域にとって大きな励ましとなった。日本は「近代化の成功例」として尊敬を集め、改革派のモデルとなった。
一方、東アジアでは事情が異なる。日本は近代教育やインフラ整備を進め、「近代化のお手本」としての側面を持ちながら、同時に軍事力と行政権力を背景に中国・朝鮮への介入を強めた。
近代化の教師でありながら、帝国主義的抑圧者でもあった。
この二面性こそが、五四運動と三一運動の背景に横たわる構造である。
近代教育は自由や平等の理念を広めたが、それは同時に「なぜ日本に支配されるのか」という問いを民衆に突きつけた。日本が広めた近代思想が、日本の支配に対する抵抗を生み出したという歴史の皮肉は、今日の東アジアの歴史認識にも深く影を落としている。
107年後の今、私たちはこの歴史をどう受け止めるべきか。
重要なのは、日本が「希望の星」として見られた地域と、「抑圧者」として記憶された地域が同時に存在したという事実を、都合よく切り取らずに受け止めることである。歴史の光と影をともに直視することは、過去を責めるためではなく、未来の信頼を築くための最低条件である。
広島は、戦争と平和の問題を自らの歴史として背負う都市である。だからこそ、1919年の問い――「近代化とは誰のためのものか」「国家の成功は民衆の尊厳を踏みにじってよいのか」――を、私たちは他人事として扱うことはできない。
五四運動107年の節目に、私たちは改めて問いたい。
国家の近代化と民衆の尊厳は両立するのか。
そして日本は、どちらの側に立つのか。
この問いに向き合う姿勢こそが、東アジアの未来に必要な「歴史との向き合い方」である。
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さとう しゅういち
サトウ シュウイチ/50歳/男