2026/8/10

その旅は、和馬ひとりの旅ではなかった。
新見へ向かう列車には、見慣れた顔がずらりと並んでいた。まさひろ、丸木、原沢、シスコ、そして帳簿を抱えたゆき。黒金を、故郷の水で育てる――その設計図の最後の一皿を、この目で確かめておきたいと、皆が言って聞かなかった。芽吹いた紅金の畑を守るため、加藤だけが万能に残っていた。
和馬の鞄には、判子の押された出張伺いが一枚入っていた。用務――先進地視察。だが旅費は自腹で、日程は有給と公休をつなぎ合わせたものだ。復命書は、帰ってから書くことになる。誰も読まぬ紙かもしれない。それでも和馬はこの旅を役所の記録に残しておきたかった。いつか誰かが同じ道を辿るとき、そこに一枚でも先例があったほうがいい。
岡山、新見。降り立った一行を迎えたのは、見覚えのある白い山肌だった。石灰岩。カルストと呼ばれる地形が、町のあちこちに白い岩の背を覗かせている。
「おおっ、これは……!」いちばんに声をあげたのは、丸木だった。石灰の岩肌に駆け寄って頬ずりせんばかりに撫でさする。「見ろよ、この石灰岩。うちの山と、同じ肌だ。……こいつは、いい水が出るぞ。間違いねえ」
「また石だ」原沢がため息をついた。「どこへ来ても、土と石だな、あんたは」
だが丸木の勘は、半分だけ正しかった。そのことを、和馬たちはこの日のうちに思い知ることになる。
養殖場は、その清流のほとりにあった。
「You must be チーム万能! ようこそ、新見へ!」
出迎えたのは、驚くほど若い男だった。日に灼けた肌に、白いTシャツ。二十代の半ばだろうか。「龍之介です。育ちは半分カナダでね。ま、よろしく!」
流暢な英語混じりの挨拶に、一同がたじろいだ。
和馬は一歩前へ出て、名刺を差し出した。「万能市役所、地域振興課の大森と申します。本日はお忙しいところ、視察をお受けいただき、ありがとうございます」
龍之介は名刺を受け取ってしげしげと眺め、それから顔を上げた。「役所の人? へえ、珍しいな。……この日程、平日だよね。出張?」
「有給です」和馬は言った。「旅費も自分持ちで」
「なんで、そこまで」
「街に、あまり時間がないので」
龍之介はしばらく和馬の顔を見ていた。それから名刺を丁寧に胸ポケットへしまった。「……OK。じゃあ、こっちも出し惜しみはなしだ」
と、そのとき。
「……アイアム、ビーマン」
丸木が胸を張って、たどたどしく言った。蜂駆除職人としての、精一杯の自己紹介だった。
一瞬の沈黙。
「丸木さん」原沢が真顔で言った。「それ、"蜂男"だよ」
どっと笑いが起きた。龍之介まで、腹を抱えている。「Haha! Bee-man! いいね、最高だ!」
「な、なんだよ。蜂を退治する男、って言いたかったんだよ」丸木が真っ赤になってぶうたれる。
「じゃあ次は、日本語でいこうな」まさひろがその肩をぽんと叩いた。また、笑いが起きる。
張り詰めていた旅の空気がその一発で、すっかりほどけた。
龍之介が水槽の一つへ一同を案内した。
覗き込むと、暗い水の底を、悠々と巨大な魚が泳いでいた。細長い、鎧のような体。四本の髭。歯のない、おちょぼ口。
「うわっ、こわい顔!」シスコがのけぞる。
「チョウザメ。二億年、姿を変えてない古代魚だよ」龍之介が目を細めた。「英語じゃスタージョン。皇帝の魚、なんて呼ばれ方もする。見た目はこわもてだけど、歯もないし、性格は臆病で大人しいんだ。……でもね、いちばん大事なのは、魚じゃない。この、水なんだ」
「だろうな」丸木が身を乗り出した。
「チョウザメの故郷は、ヨーロッパやシベリアの冷たい川さ。あっちの水は、たいてい硬い。カルシウムやマグネシウムがたっぷり溶けた、硬水だ」龍之介は水槽の縁を指で叩いた。「うちの水も、それ。石灰の山を潜ってきた、かちかちの硬水。だからこの魚の故郷に、近い」
「うちの山と、同じだな」丸木が得意げに胸を張った。
「いえ」
和馬は静かに首を振った。丸木がきょとんとした顔で振り返る。
「うちの湧き水は、軟水です」
龍之介の顔から、笑みが消えた。
「……軟水?」
「石灰の山から湧くんですが、岩盤を長く潜っているせいか、角の取れた、やわらかい水で。丸木さんが飲んで、まろやかだ、と」
龍之介はしばらく黙って和馬を見た。それから、ふう、と息を吐いた。
「――正直に言うよ。うちのやり方、そのまま持って帰ったらたぶん一年目で全滅してる」
一同の顔が一斉に強張った。
「なんでだよ」丸木が食ってかかった。「水は綺麗だぞ。冷てえし、一年中、温度も変わらねえ」
「そこは満点だ。魚を飼う水として、これ以上ないくらいいい」龍之介は頷いた。「問題は、閉じた水槽で回すってところなんだ」
彼はホースの束を跨いで濾過槽の蓋を開けた。黒い砂利のようなものが、ごろごろと詰まっている。
「陸上養殖ってのは、同じ水をぐるぐる使い回す。魚は糞をする。餌も残る。それをバクテリアが食って分解する。……その分解のたびに、水がじわじわ、酸っぱいほうへ傾いていくんだ」
「酸性に、ということか」原沢が眼鏡を押し上げた。
「そう。硬水ってのは、その傾きを踏みとどまらせる力があるんだよ。カルシウムが、水の足を踏ん張らせてくれる」龍之介は蓋を閉めた。「軟水には、それがない。ふらふらなんだ。ある日いきなり、がくんと落ちる。……朝来たら、水槽じゅうの魚が、腹を上にして浮いてる。おれ、カナダで一回やってる」
沈黙が落ちた。
石灰の山を見つけ、冷たい湧き水を掘り当て、黒い宝の名前まで決めた。その足元がいま静かに崩れかけていた。
和馬は爺の声を思い出していた。――向こうの技を、そっくり持って帰ってくりゃいいと思ってんなら、やめとけ。真似は、真似で終わる。
あの老人は、これを見越していたのだ。
「じゃあ」まさひろが低く唸った。「うちの水じゃ、キャビアは無理ってことか」
「そうは言ってないよ」龍之介は肩をすくめた。「足りないものを、足せばいいだけだ。……水にカルシウムを少しずつ溶かし込みながら回す。濾過槽に、その素を噛ませてやればいい」
「素、っつうのは」丸木が訊いた。
「貝殻とか、サンゴとか。あとは――」
「石灰岩だ」
言ったのは、丸木だった。
龍之介がぴたりと止まって、この蜂男の顔を見た。
「うちの山にゃ」丸木はゆっくりと言った。「そいつが、腐るほどある」
数秒の間があって、龍之介が噴き出した。天を仰いで腹を抱えて笑いだす。
「Unbelievable! それだよ、Bee-man!」
和馬の背筋を、痺れが駆け上がった。
万能の水は、石灰の山を潜りながら、軟水として湧いてくる。閉じた水槽で回すには、そこにカルシウムを足し戻してやらねばならない。そしてその素は――同じ山の、腹の中にいくらでも埋まっている。
白金の山が、黒金を育てる。それは比喩ではなかった。あの山の石が、そのまま、この魚を生かす濾過材になるのだ。川上を太らせた石灰石が、今度は街の最後の一皿を支える側へ回る。
「見ろよ」丸木が誰にともなく呟いた。「石ってのは、いつだって、使い道待ちで転がってるだけなんだ」
原沢が今度は、ため息をつかなかった。
「あんたたちの街の水に合うやり方は、あんたたちで組むしかない」龍之介は言った。「同じ石灰の山から、こんなに違う水が出るんだ。……面白いだろ?」
爺の言葉と、寸分たがわなかった。和馬は手帳を開いてその一言をそのまま書き留めた。復命書に書けるかどうかは、わからない。だがこれは、この旅で持ち帰るべきいちばん大事な一行だった。
龍之介が施設のなかを案内していく。水を外へ流さず、閉じた水槽でぐるぐると回す、陸上養殖。「濾過して、酸素を送って、水温を保つ。全部、電気と人の手でね。天候にも外の川にも、左右されない。街のなかで完結する、小さな水の世界だ」
「独立した水の王国だ」丸木が得意げに言った。原沢がまた土をこするのか、という顔をしたが、今度は黙っていた。
「ただね」龍之介が少し声を落とした。「キャビアが採れるまで、何年かかると思う? ……うちでも、七年だよ。雌が卵を持つまで、七年から八年。七年、一円にもならない魚を、育て続ける」
「七年」ゆきが帳簿から顔を上げた。その目が鋭い。「その七年、誰が金を出すんだい」
「そこは、次の話とセットさ」龍之介がにっと笑った。「まあ、まずは、食ってみてよ」
その夜、龍之介は自分の作ったキャビアを振る舞ってくれた。
純白の皿に、艶やかな黒い粒。それが卓の真ん中へ置かれた瞬間、六人が六様に固まった。
「……ちょっと待ちな」最初に口を開いたのは、ゆきだった。帳簿を開き、鉛筆を構えている。「これ、一粒いくらだい」
「粒で数えたことはないなあ」龍之介が笑った。「三十グラムで、まあ、諭吉さんが何人か」
「諭吉」ゆきの鉛筆が止まった。「……この皿の上に、うちの一ヶ月の家賃が載ってるってことかい」
「食う前から計算すんな」まさひろが呆れた。
「いいから、食ってみなって」
銘々がスプーンでそっと掬い、おそるおそる口に含んだ。
――ぷちり、と、粒が弾けた。
広がったのは、海の味ではなかった。
乳のようなまろやかさと、ナッツを噛んだときの香ばしい甘み。舌の奥に、かすかな鉄の余韻が残る。塩気は驚くほど控えめで、生臭さはどこにもない。濃いのに、後口はどこまでも澄んでいた。
卓が、しん、と静まりかえった。
「……ん、んん――っ!!」
最初に音を漏らしたのは、シスコだった。両手で口を押さえ、目を見開いたまま、鼻の奥から絞り出すような声を出している。言葉になっていない。しばらくして、彼女ははっと顔を上げた。
「……あたし、写真」
「え?」
「撮り忘れた」シスコは呆然としていた。「あたしが、食べもんの写真を、撮り忘れた」
「事件だな」まさひろが唸った。
そのまさひろはといえば、目を閉じたまま天井を仰いでいた。長い息を吐いて、ようやく一言。
「……おれ、しばらく、酒の選び方を考え直すわ」
「原沢さん」和馬は隣を見た。「どうです」
「……えー」
眼鏡の男は、スプーンを持ったまま止まっていた。
「……えー、その」原沢は口を開き、閉じ、また開いた。「……口内で、その、脂質と、塩分の、バランスが」
「原沢さんが」シスコが指を差した。「言葉に詰まってる!」
「詰まってない」
「詰まってるよ。数字の人が、言葉、探してる」
「うるさい」原沢は眼鏡を押し上げ、それから小さな声で言った。「……旨い。すごく」
どっと笑いが起きた。
だがそのなかで、一人だけ、まったく違う顔をしている男がいた。
丸木だった。
彼は口を動かしながら、じっと目を閉じている。噛むというより、舌の上で転がして、確かめているようだった。やがて、ゆっくりと目を開けた。
「……石だ」
「はあ?」
「石の味が、する」丸木は真顔で言った。「山の、奥の、あの岩の匂いだ。おれの舌が言ってる」
「出た」原沢が天を仰いだ。「どこへ行っても石だ、この人は」
「またそれかよ」まさひろが吹き出す。「キャビア食って石の話するやつ、日本で一人だぞ」
ところが。
「――Exactly!」
声を上げたのは、龍之介だった。丸木を指差して、目を丸くしている。
「ミネラルだよ! 石灰の水のカルシウムが、卵の味を作ってる。うちの魚が旨いのは、この土地の岩のおかげなんだ。……あんた、なんで分かったの」
卓が、静まった。
「……分かるさ」丸木は照れ隠しのようにぶっきらぼうに言った。「おれは、石を掘って生きてきたんだ」
誰も、笑わなかった。
この一年、この男の口癖を、皆はさんざん茶化してきた。いい土だ。いい石だ。どこへ行っても同じことを言う。だがそれは口癖ではなかった。この男は、本当に、土と石の声を聞いていたのだ。
「丸木さん」和馬は言った。「あんた、すごいよ」
「……よせやい」丸木は真っ赤になって、そっぽを向いた。それから小さな声で、「もう一口、食っていいか」と言った。
「どうぞ、Bee-man」
「みんな、キャビアっていうと海を想像するんだよね」龍之介が笑った。「でも、チョウザメは淡水魚だよ。川と、湧き水の魚だ。……これは、山の味なんだ」
山の味。
和馬の舌の上で、その一言が思わぬ形に転がった。硬水がこの香ばしさと鉄の余韻を作るなら、角の取れた万能の軟水は、また違う一粒を作るのではないか。同じ味にはならない。ならなくて、いい。
「龍之介さん」和馬は顔を上げた。「軟水で育てたら、味は変わりますか」
「変わるだろうね」龍之介はあっさり言った。「たぶん、もっとやわらかく出る。……それが売り物になるかどうかは、育ててみなけりゃ、誰にも分からない」
誰にも分からない。つまり、この国のどこにもまだない味だということだった。和馬の胸の底が、静かに熱くなった。
ふと見ると、ゆきの鉛筆が卓に置かれていた。帳簿は閉じられている。金庫番は何も言わず、二粒目に手を伸ばしていた。
まさひろが、そっと和馬の袖を引いた。
「おい。ゆきさんが、計算やめたぞ」
「……ええ」
「あの人が、値段の話をやめるってのはな」まさひろは、にやりとした。「そりゃもう、旨いってことだ」
「輸入もののキャビアは、塩をたっぷり効かせて、加熱殺菌してある。何ヶ月も船に揺られてそれでも傷まないようにね」龍之介は言った。「日持ちはするけど、香りも食感も、殺されちゃう。……安く手に入るものには、安くできる理由が、ちゃんとあるんだよ」
和馬の耳の奥で、日向の大将の声が鳴った。船で何十日も揺られて腐らない柑橘には、腐らないだけの薬が撒かれている。土地も品物も違うのに、話の骨がまるきり同じだった。
「うちのは、無添加、非加熱。岩塩だけで、瞬間冷凍」龍之介は得意げに続けた。「だからこのフレッシュな香りが生きてる。……本物ってのは、そういうことでしょ?」
本物。タマシャモと、へべすで和馬たちが学んだのと、同じことだった。
「これに合わせるならね」龍之介が一本のワインを抜いた。ラベルには、石灰岩の絵。この新見もまた、石灰の大地で葡萄を育て、ワインを造っていた。赤い一杯と、黒い一粒。石灰の土と、石灰の水が生んだ二つの宝が、和馬の舌の上で静かに寄り添った。
紅金と、黒金。万能が目指すその組み合わせを、この西国の街は、もう実現していた。夢物語ではない、という確信が静かに和馬の腹の底へ落ちた。
「ところで、龍之介さん」和馬は切り出した。「こんな高級なキャビア、いったい、どうやって売ってるんですか」
「うちのいちばんの売り先はね――ふるさと納税だよ」
和馬の心臓が跳ねた。二つ目の指令。半年、頭の隅に追いやってきた、あの言葉。
「こんな山奥のキャビア、普通に店に並べたって、誰も知らない。でも、ふるさと納税なら、話がまったく別なんだ」龍之介は指を立てた。「『石灰の水で育てた、幻の国産キャビア』――そういう物語をつけて、返礼品に載せる。すると、全国の人が寄付のお礼に、うちのを選んでくれる。山奥の小さな養殖場が、全国の食卓と直接つながるんだ」
和馬の頭に、あの窓際の机が浮かんだ。二十四ページの、写真の暗いカタログ。米。しいたけ。木工の箸。タオル。悪いものではない。だがそこには、この街がなぜそれを作れるのかという話が、一行も書かれていなかった。
足りなかったのは品物ではない。物語だったのだ。
「物語で、売る、か」シスコが身を乗り出した。目が爛々と輝いている。「それ、あたしの得意分野だよ! ママ友の網に、いい物語を一つ流せば、全国に火がつく。『幻の』って言葉に、女は、めっぽう弱いんだ」
「待ちな」ゆきが帳簿を開いた。「うちのふるさと納税はいまだに年一億で頭打ちだ。似た規模の街に、大きく負けてる。……なんでか、わかるかい」
「返礼品が弱いからだ」原沢が引き取った。眼鏡が光る。「どこにでもある米や、肉。物語がない。単価も安い。……だがうちにはこれから、とびきりのやつが揃う。幻の地鶏。国産一%の羊。空白の玉座の赤い泡。そして――この、黒い宝」
「それを全部、物語つきの返礼品にして、この出口へ流し込む」和馬の声が熱を帯びた。「単価の高い本物を、全国の食卓へ、直接届ける。年一億が、十億、五十億――百億も、夢じゃない」
「セットにするといいよ。――特に、毎月のサブスク、お届け便だね」龍之介が口を挟んだ。「アイテムが多ければ、季節ごとに組み合わせを変えられる。春は羊、夏は野菜、秋は地鶏、冬はキャビアとワイン、って具合にさ。そうすりゃ、ファンが何年も、その街を応援してくれる。何より――毎月、決まった売り上げが、どーんと確保できるんだ」
龍之介は少しだけ悔しそうに笑った。「うちは、キャビアの単品だからさ。そこまでの組み合わせは、作れない。……でも、万能なら。あれだけの宝が揃うなら、きっと、できる。羨ましいくらいだよ」
「――そこだ」
声を上げたのは、ゆきだった。帳簿の上で、鉛筆が止まっている。
「あんた、さっき七年って言ったね。キャビアが金になるまで、七年」ゆきは龍之介を見た。「うちは、単品じゃない。地鶏は四ヶ月で出る。野菜は数ヶ月。羊も、二年あれば肉になる。……つまり早く金になるやつで食いつなぎながら、遅い宝を、七年、育てていける」
一同が、はっと顔を上げた。
「そういうことか」原沢が呟いた。「速い品が、遅い金を、背負う。ばらばらに集めてきたつもりの宝が、実は、互いの時間を支え合う組み合わせになっていた」
和馬は言葉が出なかった。
旅の一つひとつは、その場の勢いで拾ってきたものだった。吉野で木を、余市で葡萄を、知床で羊を、野辺山でエネルギーを、地元に隠れていた鶏を、日向で香りを。それが今、七年という長い時間を渡りきるための、一本の橋になっている。設計したつもりのない設計図が、勝手に整合していた。
「毎月、季節ごとに、届ける」和馬は静かに言った。「実る前から支え手を集める。……木のオーナー制度と、同じ思想だ」
一度きりの寄付ではなく、街と応援する人との、長い付き合いを結ぶ仕組み。ばらばらだった歯車が、和馬の頭のなかで、一本の太い管へと繋がっていく。
眠る山の恵みを、ふるさと納税という出口から、全国の金に変える。一つ目と、二つ目を、繋げろ――特創の声が、耳の奥で鳴った。その繋ぎ方の生きた見本がいま、目の前で皆の熱に照らされていた。
「龍之介さん。万能に、来てくれませんか」和馬は思わず言っていた。「うちの街の石灰の水で、この魚を育てたいんです」
龍之介はしばらく一同を見回した。それからぱっと顔を輝かせた。
「Sounds exciting! 面白そうじゃん」彼は手を差し出した。「軟水でチョウザメなんて、まだ誰もまともにやってない。うまくいけば、日本で初めてだ。おれ、そういう無茶な挑戦、大好きなんだ。……あ、でも、Bee-man の英語の面倒は、見ないよ?」
どっと、また笑いが起きた。丸木が「うるせえ!」と吠える。
余市の夫婦。野辺山のユウ。日向の大将。そしてこの新見の若き達人。旅先で出会った本物たちが、一人、また一人、万能へ集おうとしていた。設計図の最後の一皿が、確かな手応えとともに埋まった。
だがその帰り道。和馬のスマホに、万能に残った加藤から、短い一報が入った。
『和馬さん。留守中に、あなたの部屋を、嗅ぎ回った人がいたみたい。大家さんが見てた。荒らされてはないけど……何かを、探してたって。気をつけて』
和馬は指先の絆創膏をそっと握った。
押し入れの奥の、アルミのケース。武骨なスマホと、誰にも見せられない身分証。もし、あれを見られていたら。この列車で笑っている連中の顔を、和馬はもう二度と、まっすぐには見られない。
黒い宝を、掴んだ。街を回す出口も、見えた。仲間は、増えた。だがその光の分だけ、それを狙う昏い手も確実に、すぐそこまで伸びてきていた。
窓の外を、西国の山が流れていく。和馬は手帳を開き、復命書の下書きに一行だけ書いた。
――当市の水は軟水につき、先進地の手法をそのまま導入することは適当でない。
役所の書式に、こんな一行を書き込むのはたぶん初めてだった。真似では届かない。だからこの街のやり方を、この街で組む。それは工作員としてではなく、地域振興課の職員としての、和馬の最初の結論だった。
(第21話 了)
この記事をシェアする
ノグチ カズヒコ/51歳/男
ホーム>政党・政治家>野口 和彦 (ノグチ カズヒコ)>小説『スイッチバック』 第21話 黒い宝