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野口 和彦 ブログ

小説『スイッチバック』 第19話 石灰の水脈

2026/8/10

 

議会をしのいだ安堵は、和馬のなかに長くは留まらなかった。継続審査という棚上げは、川上にとって、ただの仕切り直しにすぎない。そして川上は負けた腹いせのように、その牙を思わぬ方向へ向けはじめていた。

 

 議場で財政の数字を突きつけた久保田のもとへ、会派の重鎮たちが代わる代わる圧力をかけているという噂が流れた。次の選挙では公認しない。委員会からも外す。あからさまな締めつけだった。

 

 そしてその圧の余波は、市役所の和馬にも静かに忍び寄っていた。地域振興課の島に、これまで見かけなかった人事課の人間が用もないのに顔を出す。桑原課長が、和馬の勤務記録をやけに細かく確かめる。誰があの数字を外へ流したのか――その追及の網が、じわじわと和馬の足もとまで伸びてきていた。

 

 あの数字の出どころが自分だと知れれば、地域振興課の下っ端という隠れ蓑は、その瞬間に剥がれる。和馬は机の上で、誰にも気づかれぬよう静かに息を整えた。表の顔と裏の使命の境目が、これまでになく薄くなっていた。

 

 剥がれて困るのは、自分の身の安全ではなかった。あの斜面でバケツを渡した街の人たちが、いつのまにか国の工作員と手を組んでいたと知ったら。加藤が、シスコが、源蔵が、どんな顔をするか。和馬がいちばん恐れていたのは、その顔だった。

 

 そんな重い日々のなか、和馬たちを山へ誘ったのは、丸木だった。

 

「川上の弱みを、探しに行く」丸木は事もなげにそう言った。

 

 石灰山は、白金の山だ。昭和のむかし、この山から切り出された石灰石がコンクリートになり、川上グループを太らせた。川上の富の、いちばん最初の源泉。ならばその足もとにこそ、あの男の急所が埋まっているかもしれない――丸木の勘は、そういう勘だった。

 

 鬱蒼とした杉林を抜けると、道は次第に、太古のような森へと変わっていった。沢の音が絶えず耳の底に響いている。ブナの巨木がうねるように枝を伸ばし、その足もとを、名も知らぬ清流が幾筋も走っていた。かつて石灰を掘った鉱山の跡が、蔦に覆われて朽ちている。白金の名残だ、と和馬は思った。この山は、川上を太らせるずっと前から、ここに在ったのだ。

 

 夏草を掻き分け涸れ沢を遡るうちやがて木々の隙間がふいに開けた。

 

 和馬は思わず息を呑んだ。

 

 斜面いっぱいに、緑の苔が絨毯のように敷き詰められていた。転がる巨石の一つひとつを、苔という苔がびっしりと覆い尽くしている。梢の隙間から零れ落ちた陽の光が、その緑の上へ、スポットライトのように点々と降っていた。光と影がゆっくり揺れるたび、緑の世界が生きもののように表情を変える。鳥の声も、風の音も、どこか遠い。まるで、時の流れそのものが、この一角だけ静かに止まっているようだった。

 

 空気が、違った。ひんやりと湿って、微かに土と青葉の匂いがする。ひと息吸い込むだけで、肺の底まで洗われていくようだった。誰も、口をきかなかった。きけなかった、というほうが近い。声を出せば、この静けさが壊れてしまう気がした。

 

 人の営みから遠く隔たった、山のいちばん奥。そこにこんな別天地が、誰にも知られずずっと息づいていた。

 

 そしてその苔むした巨石の裂け目から、澄んだ水がこんこんと湧き出していたのだ。手を浸すと、真夏だというのに、指が痺れるほど冷たい。

 

「……こいつは」丸木がその水を両手で掬った。「石灰の岩を、擦り抜けてくぐってきた水だ。濾されて、磨かれて――そのくせ、角がまるでねえ。やわらかい軟水だ」彼はひと口含んで、目を細めた。「そんで、年がら年中、この冷たさを保ってやがる。夏でも、冬でもだ。……これは、めったにねえ水だぞ」

 

「昔、このあたりにゃ、沼があったって話だ」丸木は続けた。「山の神の化身の鵜が棲んでた、なんて言い伝えもある。……伝説はどうでもいい。確かなのは、この山まるごとが、水をたっぷり抱えてるってことさ。だからこんな苔が育つんだ」

 

 和馬はあらためて周りの山々を見渡した。幾重にも連なる、奥深い山の襞。その一つひとつが雨を受け、地の底で濾し、こうして冷たく澄んだ水を絶えず生み出している。

 

 水源地。

 

 これもまた、この街がずっと足もとに眠らせてきた、見えない宝だった。眠れる七割五分の森を、誰もがただの厄介な山だと思っていた。だがその森は、いのちの水を、街のために静かに蓄えつづけていたのだ。

 

 息を切らして登ってきた一同が、湧き水を囲んだ。冷たい水で顔を洗ったまさひろが生き返った、と唸る。シスコは掬った水をひと口飲んで目を丸くした。

 

「ねえ」シスコが水面を覗き込んでのんきに言った。「こんなに水がたっぷりあったら……なんか、養殖でもできたら、面白いのにねえ」

 

 何気ない一言だった。だがその一言が妙に、皆の耳に残った。

 

「養殖、な」まさひろが腕を組んだ。「どうせなら、金になるやつがいい。……なあ、ワインと一緒に食って、いちばん合うのって、なんだ?」

 

「キャビア」

 

 答えたのは、ゆきだった。サラサラの艶やかな黒髪を、片手でふわりとかき上げながら。ただそれだけの仕草が、なぜか山の中の空気を、ぐっと高級なものに変えた。

 

「おおお!」「さすが、ゆきさん!」

 

 まさひろとシスコが同時に声をあげた。

 

「キャビアなら」原沢がすかさず被せた。眼鏡の奥の目が光っている。「養殖魚のなかでも、飛び抜けた高級路線だ。単価が桁違いに高い。少ない量で大きく稼げる、筋のいいビジネスになる」

 

「黒いダイヤだな!」

 

 声をあげたのは、丸木だった。地質眼の男が、宝の地図でも広げた少年のように、目を輝かせている。「石ころのなかからキラキラを掘り出すのが、おれの仕事だ。キャビアってのは、いわば、食える黒いダイヤじゃねえか!」

 

 その無邪気な一言が、和馬の頭のなかで、最後のピースをかちりと嵌めた。

 

「……黒金だ」和馬は思わず呟いた。

 

 木金。白金。紅金。その赤い宝に続く、黒い宝。旅と争いを経て束ねてきた設計図の、いちばん最後の一行の名前が、いま、丸木の子どもみたいな一言で決まった。

 

 キャビアは、チョウザメの卵。チョウザメは、冷たく澄んだ、水温の変わらない水を好む。それは、いま丸木が掬った、この水そのものだった。和馬は湧き出す冷たい水をまじまじと見た。眠っていた石灰の山が、その懐の奥に、街の食を締めくくる最後の宝を、ずっと隠し持っていたのだ。

 

「なあ、丸木さん」和馬は笑いだしそうになるのをこらえた。「あんた、川上の弱みを探しに来たんだよな」

 

「ああ」

 

「見つけたよ。とびきりのやつを」和馬は山を見上げた。「この山は、白金の山だ。川上を太らせた山だ。その同じ山の水で、黒金を――キャビアを育てる。川上の富の源泉が、そっくりそのまま、街の未来を育てる水に変わる。……これ以上、あの男に一泡吹かせる手が、ほかにあるか?」

 

 一同の顔に、じわりと悪戯っぽい笑みが広がった。

 

「だが水利権は」原沢だけが冷静に言った。「この山の水は、川上の息のかかった水利組合が握ってる」

 

「だから用水路は使わない」和馬は即座に答えた。「湧いた水をその場で汲んで、閉じた水槽のなかで循環させる。陸上養殖だ。川上の栓の、その手前で、山の恵みをそっといただく。組合の許可も、用水路も、いらない」

 

 言いながら、和馬の胸で、爺の声が鳴っていた。堰ってのはな、水路を変えちまえば、ただの置き物さ。水門を閉じられたなら、水門の要らない水の使い方をすればいい。回り込む、というのは、こういうことだった。

 

「威勢はいいけどね」ゆきが水を差すように言った。「魚を飼う水槽を、一年中、止めずに回すには、電気がいるよ。ポンプも、水槽を濾過して掃除する装置も、ぜんぶ電気食いだ。……見な。この山のなかに、電線の一本でも、通ってるかい?」

 

 一同があたりを見回した。頭上には、夏の梢が茂るだけ。電柱も、電線も、どこにもない。

 

 だがその沈黙は一瞬だった。

 

「――ユウさんだ!」

 

 まさひろと、シスコと、和馬がほとんど同時に叫んでいた。顔を見合わせて、笑いだす。

 

 野辺山の、あの高原。畑の上に簾のように架けた太陽光のパネル。発電しながら、その下で農をやり、羊を飼う――立体の一次産業。電線が来ない土地でも、自分で電気を作ればいい。ユウは言った。万能で無茶をやるときは、呼べ、と。

 

 そしてユウはもうひとつ言っていた。この国の電気は七割が火力で、その燃料はほとんど海の向こうから来る、と。よその国が咳をすれば、この国の明かりが消えかねない、と。――なら、この山で魚を育てる電気くらい、自分の頭の上から湧かせてやろう。和馬はそう思った。

 

「立体の一次産業なら」まさひろが腕を組んだ。「発電しながら、魚を育てて、その足元で野菜も作れる。……なんでも、できそうだな!」

 

「ねえ、それさ」シスコがふと目を輝かせた。「もし、発電がたっぷりできたらさ。魚だけじゃなくて……あたしらの家の電気代も、それでまかなえたら、最高じゃない? 電気代のいらない家。そんなの、夢みたいだよねえ」

 

「夢でもねえよ」丸木が斜面の上を顎でしゃくった。「この上に、電気も水道も来てねえまま朽ちてる集落がある。おれが子どもの頃は、二十軒からあった。いまは、ゼロだ。……線を引くのに金がかかるってんで、市はとうに見放してる」

 

「じゃあさ」シスコが首をかしげた。「線を引かなくていい家なら、あそこ、住めちゃうってこと?」

 

 誰も、答えなかった。夏の梢が、さわりと鳴っただけだった。

 

 何気ない、暮らしのなかの思いつきだった。だがその一言は――のちに、この街の暮らしそのものを、根っこから変えることになる、ひとつの種をそっと蒔いていた。いまはまだ、誰も、それに気づかない。

 

 石灰の山の中腹で、いつのまにか皆の顔から、あの重い空気がすっかり消えていた。答えは、いつも足元にある。川上が握っているはずの水が、川上を出し抜く、最初の一手になる。

 

 山を降りる一行の足取りは、登ってきたときとは別人のように軽かった。夏の陽が、木々の隙間から、その背を明るく照らしていた。

 

 誰かが下山の道すがら、鼻歌をうたいはじめた。まさひろがそれに合いの手を入れ、シスコが笑う。数字に追われ、水門を閉じられ、脅されてもなお、この連中は、山の水ひとつで、こんなにも笑える。和馬はその背中を追いながら思った。――ほんとうに強いのは、この街だ。この、どんな壁の前でも笑える連中だ。

 

 だがその夜。

 

 和馬がアパートに帰ると、ドアの郵便受けに、一通の封筒が差し込まれていた。差出人は、ない。

 

 嫌な予感を覚えながら、和馬は封を指で切り開き、なかから二つ折りの紙を引き出した。

 

 その紙が、風を切った――その瞬間。

 

「いてっ」

 

 鋭い痛みが指先に走った。見ると、人差し指の腹が、すっと切れている。血が、玉のように盛り上がった。封筒の口に、薄いカッターの刃が一枚、仕込まれていたのだ。

 

 滴った血が、引き出した紙の上に、ぽたりと落ちる。印字された文字が、赤く滲んだ。

 

 ――余計な水路に、手を出すな。次は、指先では済まない。

 

 和馬は血の滲んだその紙をじっと見つめた。数字の追及。そして刃を仕込んだこの脅し。川上の堰は、もはや書類や水門だけのものでは、なくなっていた。連絡将校を、駅で冷たくした手の影が、いま確かな痛みとなって、和馬の指先にあった。

 

 封筒。指先の血。――あの夜、ホームで老人が握らせた、あの黄ばんだ封筒が、頭をよぎった。あの人も、こんなふうに、少しずつ追い詰められていったのだろうか。次は、指先では済まない。その一行が意味するものを、和馬はもう正確に理解できる歳になっていた。

 

 だが和馬は血の滲んだ紙を静かに握りつぶした。

 

 脅しの一枚くらいで退く旅を、自分はしてこなかった。眠った白金の山が抱えた黒い宝を、必ず、街の手に。窓の外では、夏の夜気の向こうに、石灰の山が黒々と、街を見下ろしていた。その懐の底で、冷たい水脈が、次の一手を待って静かに脈打っていた。

 

(第19話 了)

 

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著者

野口 和彦

野口 和彦

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肩書 会社役員 マーケティングコーチ 健康管理士一般指導員 前飯能市議会議員(3期)
党派・会派 無所属
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