2026/8/3

紅金の芽が渇きを越えた喜びは、長くは続かなかった。川上の本丸は、川上自身が予告したとおり、六月の定例会だった。県へ続くただ一つの水路である地域経済牽引事業計画を、そこで廃案に葬る。それが決まれば、芽吹いた葡萄も、旅で束ねてきた設計図も、そのすべてがいっぺんに行き場を失うことになる。
そして、時計は待ってくれない。工程表の閉校まで、あと九ヶ月。芽吹いたばかりの紅金が金を生む畑に育つより先に、母校の年度末が来る。ここで水路を潰されれば、間に合うはずのものも、間に合わなくなる。
純喫茶の卓に広げられた議席表を前に、まさひろが低く唸った。二十四の議席のうち、川上に連なる会派がすでに過半を固めている。正面から数で戦えば、勝ち目はどこにもなかった。
「正面から殴るな、と爺は言った」和馬は皆を見渡した。「議会を、議会のなかだけでひっくり返そうとするから負ける。回り込むんだ。議員が廃案に賛成したくてもできなくなる、外の空気を先に作る」
言いながら、和馬は自分の声に驚いていた。半年前なら、こんな絵は描けなかった。役所の椅子で通達を待つだけだった男が、いまは役所の外に水路を引く算段をしている。爺に指されて動くのではない。指されなくても、自分で回り込む道を選んでいた。
原沢がノートパソコンを開いた。「材料は、二つある」彼は淡々と続けた。「一つ。廃案の口実は、財政難だ。だがこの街の帳簿は、非常事態どころか、じつは健全そのものだ。金がないから無理、という前提そのものが、嘘なんだよ。二つ。この地域経済牽引事業計画を潰すということは、地域未来投資促進法という、県と国がわざわざ用意した水路を、自分から埋めるということだ。つまり県と国の金と信用を、市議会が自分の手で蹴る。……それを、街じゅうの前で、はっきりさせる」
その材料の裏づけを取ったのは、和馬だった。役所の内でしか触れられない決算の付表を、昼休みのたびに一枚ずつ照合していく。冴えない下っ端の机が、このときばかりはいちばん深いところまで手の届く場所になった。数字は、どこを叩いても非常事態の音を立てなかった。
その夜、和馬は鎮守の森の参道で藤原杏を待った。彼女は来た。仕立てのいい薄手のショールに月明かりを乗せて。
「県を、動かしてもらえませんか」和馬は単刀直入に言った。「あなたなら、市の頭越しに」
「立場上、私が一基礎自治体の議会に、公然と口を出すことはできない」藤原は静かに首を振った。だがその口元にかすかな笑みが浮かぶ。「――けれど、県が、あの計画を注目している、という事実を、私が否定することも、ない。廃案は、県の心証を決定的に悪くするでしょうね。県の予算を、これから何十年も当てにする市議会が、その手を自分から振り払う。……賢い選択とは、とても言えない」
和馬の背筋を、奇妙なものが撫でた。その言い回しに、覚えがある気がした。感情を殺して、事実だけを置いていく、あの平たい調子。どこで聞いたのか。喉の奥まで出かかって、思い出せない。
「ひとつだけ」藤原は去り際に振り返った。「議会は数で決まると、皆が思っている。だから数を固めた側は油断する。――ほんとうに議員を縛るのは、数ではなく、有権者の、見ている目ですよ」
議会当日。議事堂の傍聴席は、朝から隙間なく埋まっていた。バケツを提げて坂を上った、あの街の人々だった。魚屋も、教師も、片手鍋の老婆も、商店街の主人も。誰に言われたわけでもなく、彼らは仕事の手を止めて、この議事堂に詰めかけていた。
和馬も、半休を取って議場へ来ていた。担当課の末端とはいえ、執行部の席に座れば人目につく。数字の出どころを気取られぬよう、あえて街の人々にまぎれ、傍聴席の隅に、そっと腰を下ろしていた。
川上に連なる会派の長が、廃案動議の趣旨をよどみなく読み上げた。財政の逼迫。前例のなさ。素人の夢に、市民の税を賭ける無謀。もっともらしい言葉が、議場にするすると流れていく。過半の議席が当然のように頷いていた。
――だがそこで一人の議員が手を挙げた。
久保田。二期目の、若い女性議員だった。原沢が資料を託した相手である。彼女はこの街の決算の数字を一枚ずつ、議場に示していった。基金の残高。実質公債費の比率。どこをどう読んでも、非常事態などという文字は、浮かんでこない。
「財政難だからと言いますが」彼女の声が、議場に響いた。「その財政難は、いったい、どの数字のことですか」
答えられる者はいなかった。会派の長が口ごもる。原沢が夜ごと帳簿を洗い、和馬が役所の内側から裏づけた数字は、どこを叩いても非常事態などという傷を持っていなかった。財政難という廃案のいちばん太い柱が、議場のまんなかでぐらりと傾いた。
議場がざわめいた。
続いて、市民の陳情に立ったのは加藤だった。土のついていない、よそ行きの服が、かえって彼女らしくなかった。
「私は、よそ者です」加藤はまっすぐ議場を見た。「市外から、この街に通ううちに恋をしました。使われず荒れていた土地に、市民の手で葡萄が芽吹きました。その芽が渇いたとき、この街の人たちは、誰に言われるでもなく、バケツを持って坂を上ったんです。傍聴席の、この人たちが」
傍聴席の街の人々を、彼女はそっと手で示した。
「そのなかに、片手鍋に水を汲んで坂を上ってきた、八十を越えたお婆ちゃんがいます。この街の水で六十年、お米を作ってきた人です。……あの人が運んだのは、水じゃありません。この街は、まだ終わっていない、という気持ちです」
加藤の声がわずかに震えた。
「その芽を、この議場が、書類一枚で枯らそうとしています。県も国も、育てていいと言っている芽を。――どうか、教えてください。あなたがたが、守っているのは、いったい、誰の、何なのですか」
議場のどこかで、洟をすする音がした。傍聴席の老婆がそっと目頭を押さえている。よそ者だと名乗った女の言葉が、この街で生まれ育った者たちの胸をまっすぐに射抜いていた。
議場が静まりかえった。空気が変わったのを、和馬は傍聴席から確かに感じた。
過半を固めていたはずの会派の議員たちが、傍聴席の視線に、落ち着かなげに目を伏せる。県の心証、という言葉が、じわじわと彼らの計算を狂わせていく。県の金を蹴った議員という烙印を、有権者の前で押されたい者は、いなかった。
だが議場の空気を決定的に変えたのは、演説でも、数字でもなかった。いつからか、議場の袖の扉が、せわしなく開いては閉じるようになっていた。
市長のすぐ後ろに控えた職員が、腰をかがめたまま足早に議場を出ていく。しばらくして戻ると、また腰を低くして、森市長の耳もとへ何ごとかを囁く。一度ではない。二度、三度。市長の眉がそのたびに深く寄っていった。
議長席の側でも、同じことが起きていた。議会事務局の職員が青い顔で扉を出入りし、議長の背後にかがみこんでは、耳打ちを繰り返す。議長の指が手もとの資料を、意味もなくめくりはじめた。
傍聴席がざわめいた。
「……なんだ、あれ」「さっきから、行ったり来たり。何を囁いてるんだ」
バケツを提げて坂を上った街の人々の目がいっせいに、その囁きの往復を追いはじめた。議事のことは、彼らにはよく分からない。だが壇上の偉い人間たちの、その落ち着かない様子だけは、はっきりと読み取れた。何か、自分たちの計算になかった大きなものが、この議場の外で動きだしている。
和馬だけは、その扉の向こうに、月明かりを乗せた、その影を見ていた。公然と口は出さない、と彼女は言った。出さないまま、これだけの水位を動かしている。
森市長の表情が、変わった。余裕の緊縮論者の顔から、追い詰められた実務家の顔へ。議長の顔が、変わった。淡々と議事を捌いていた仮面が剥がれ、こめかみに脂汗が滲む。
そして過半を頼んでいたはずの多数派の議員たちの顔が、変わった。互いに顔を見合わせ、目で探り合う。誰かが水面下で動いている。県か。国か。それとも――。数の安心が、足もとから、音もなく崩れはじめていた。
和馬は傍聴席からそれを見ていた。藤原の言葉が、耳の奥で響く。ほんとうに議員を縛るのは、数ではなく、有権者の見ている目だ。――いま、その目が、議場の全員に注がれていた。
そのとき、久保田がふたたび手を挙げた。
「議長。採決の前に、執行部へ確認したいことがあります」彼女はまっすぐ正面を見た。「市長。この地域経済牽引事業計画は、県との共同策定です。本議会がこれを否決した場合、県との協議は、どうなりますか」
議場の目がいっせいに、森市長へ集まった。
市長は、議員の動議に賛成とも反対とも言える立場にない。それは老市長自身が、誰よりもよく知っていた。だが問われれば、執行機関の長として、事実を答える義務がある。森はゆっくりと立ち上がった。
「……お答えします」緊縮一辺倒で通してきた老市長は、苦い顔で言った。「当該計画につきましては、すでに県と事前の協議に入っております。本議会の意思として計画を否定された場合、その協議は、白紙に戻ります。……今後、県の補助採択において、本市の姿勢がどう評価されるか。執行部として、影響がないとは、申し上げられません」
賛成とも、反対とも、市長は言わなかった。ただ、起きることを述べただけだった。
――だがその事実だけで、議場の空気は凍りついた。
和馬は傍聴席で、息を呑んだ。否定はしない。ただ事実を置く。あの夜、参道で藤原杏が使ったのと、まったく同じ手だった。
県との協議が、白紙に戻る。県の心証が、この先何十年ぶんの補助採択に響く。そして数を頼んで手を挙げれば、その責めを負うのは市長ではなく、挙げた自分の手だ。過半を固めていたはずの議員たちが、いっせいに互いの顔をうかがった。
「……議長!」
声をあげたのは、川上の会派の中堅議員だった。額に汗が浮いている。「本動議は、県との協議状況を確かめたうえで判断すべきものと考えます。よって本件を所管の常任委員会に付託し、閉会中の継続審査とされたい。――動議を、提出します」
「賛成!」堰を切ったように、複数の声が続いた。廃案に手を挙げるはずだった、その側からの声だった。
議長がほとんど救われたような顔で諮った。「ただいまの、継続審査を求める動議に賛成の諸君の、起立を求めます」
議場の椅子が、いっせいに鳴った。
起立多数。廃案動議そのものは、採決されなかった。この日、議場に沈んだのは廃案ではなく、廃案を沈めるはずだった側の腰だった。
傍聴席がどっと沸いた。
勝った、わけではない。和馬は自分に言い聞かせた。地域経済牽引事業計画は、まだ承認されていない。ただ、今日、川上の手で埋め立てられずに済んだ。水路の入口を、辛うじて守り抜いただけだ。
だが街の人々の顔は、輝いていた。数を固めた議会を、市民の目が、初めて押し返した。この街は、諦めていない――その事実が、議事堂を出る人々の背をまっすぐに伸ばしていた。
シスコが傍聴席の仲間たちとこぶしを突き合わせ、まさひろは久保田の肩を力いっぱい叩いた。加藤は陳情のあいだじゅう握りしめていた原稿を、しわだらけのままそっとたたんで胸にしまう。誰も勝ったとは言わなかった。だが誰の目にも確かな手応えが宿っていた。
その群れを、川上孝政は自室のモニター越しに見ていた。議場に放った耳が、逐一その光景を運んでくる。継続審査。棚上げ。数を固めたはずの議会が、素人どもの芽ひとつ、踏み潰せなかった。しかもその動議を出したのは、ほかでもない、自分が固めたはずの身内の手だった。祖父の代から、この街の骨を組んできた自分の言葉が、あのバケツを提げた連中の前で、通らなかったのだ。
――ぐぬぬぬぬ。
喉の奥から、獣のような低い唸りが漏れた。杖の握りを、骨が軋むほど握りしめる。節くれだった手がわなわなと震え、日に灼けた顔がみるみる朱に染まっていく。こめかみに太い血管が浮いた。頭から湯気が立ちのぼりそうな、凄まじい形相だった。
傍らに控えた側近は、動けなかった。一ミリも、だ。主から静かに立ちのぼる殺気が、部屋の空気ごと、彼の足を床に縫いつけていた。息をするのさえ憚られる。喉がからからに渇いていった。
長い、長い沈黙のあと。
「――調べろ」
川上が絞り出すように、たった一言、命じた。室の空気が、しんと凍りついた。
「あの数字を外へ流したのは、誰だ。あの女議員か。市役所の、小僧か。……根を、たどれ。一人残らず、炙り出せ」その声は低く、底冷えがした。
「それと」川上の目がふと細くなった。「今日、議場の外で誰かが動いた。市長と議長を、あそこまで青くさせる手だ。市議会の外に、この絵を描いとる者がおる。――そいつを、突き止めろ。小僧を泳がせておけば、いずれ、そいつの前まで泳いでいく」
継続審査など、時間稼ぎにすぎん。次の九月議会で、必ず埋め立てる。あの芽も、あの水路も、まとめて――老人の目は、そう語っていた。
側近は、転がるように部屋を出ていった。堰は、一度は押し返された。だが退いた水は、より昏く、より大きな圧となって、次の関所で、また下りてこようとしていた。
議事堂の外。人波が引いたあとの石段に、藤原杏がひとり立っていた。
「いい目を、してきましたね。街の人たちが」彼女は和馬に静かに言った。「動かぬはずの市を、市民の目が、少しだけ動かした。……これが、あなたの言う反転のいちばん最初の一回転なのでしょうね」
「藤原先生」和馬は思い切って訊いた。「あなたは、なぜ、私たちに、手を貸すんですか。表では、川上と握手しているのに」
藤原は答えなかった。ただ、遠い目で、芽吹いた斜面のある山の方角を見た。「――私も、ずっと、待っていた人間の、一人なんですよ」
待っていた。また、その言葉だった。源蔵も、あの録音機の消えていく声も、同じ言い方をした。和馬の胸の奥で細い糸がかすかに鳴る。だがその糸の先が、どこに繋がっているのかは、やはり見えなかった。
(第18話 了)
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ノグチ カズヒコ/51歳/男
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