選挙ドットコム

野口 和彦 ブログ

小説『スイッチバック』 第20話 四つの指令、ふたたび

2026/8/10

 

 朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。

 

 和馬は右の人差し指を目の前にかざした。指先に、細く赤い線が走っている。ゆうべ、封筒に仕込まれた刃が刻んだ傷だ。小さな絆創膏の下でまだじくじくと疼いていた。

 

 ――余計な水路に、手を出すな。

 

 血で滲んだあの一行が、まぶたの裏に貼りついて離れなかった。

 

 この街に帰ってきたあの日のことを、和馬はふと思い出していた。

 

 もうすぐ、一年になる。

 

 すり減って東京から逃げ帰った、あの終電のホーム。引き上げ線のそばで、痩せた老人が和馬の腕のなかで静かに息を引き取った。託されたのは、一通の封筒と、聞き終えると音を消してしまう奇妙な録音機だった。封筒のなかには、古い駅の写真――『市臣栄貞 街を、まっすぐにしなかった人』。そして輪の進む向きを変えろと書き遺した、名もない便箋。

 

 だが和馬にはもう一つの顔があった。

 

 押し入れの奥の、アルミのケース。武骨なスマートフォンと、誰にも見せられない身分証。そして四つの指令が記された薄い冊子。――和馬はただ敗けて帰ってきた若者ではない。国のある機関から故郷へ送り込まれた、潜入工作員だった。

 

 四つの指令。眠る山を、金に変えること。ふるさと納税を、年一億から百億へ育てること。お金と、健康と、人間関係に悩まない仕組みを、この街に創ること。そして――対処から予防へ、街の在り方そのものを反転させること。

 

 あれから、じき一年。

 

 眠っていた山は、木と、葡萄と、羊と、地鶏と、冷たい水を生みはじめた。街の人間がバケツを提げて坂を上るようになった。だがその分だけ敵の牙も鋭くなった。指先の血の一滴が、その証だった。

 

 半分は、本当だった。東京で底まで落ちて、消えてしまいたいと思った夜も確かにあった。だがその底で機関に拾われ、故郷へ送り返された。逃げ帰ったつもりの街で、和馬はいま、誰よりも深くこの土地に根を張ろうとしている。傷ついた指先が、その皮肉を静かに疼かせた。

 

 枕元で、武骨なスマホが震えた。

 

 登録のない番号。二度の呼び出しで、和馬は出た。あの、男とも女ともつかない、感情のない声。だが今朝の声はいつもより、わずかに重かった。

 

「指を、切られたそうだな」

 

 和馬は息を呑んだ。もう、把握されている。

 

「そろそろ話しておくべきだろう」声は続けた。「君が、いま、誰を相手にしているのか」

 

 和馬はスマホを握り直した。

 

「我々の正式な名は――地方創生特別創成室。略して、特創だ」

 

 初めて聞く、雇い主の名だった。表向きは、地方創生を支援する目立たない外郭団体。その裏の顔の名を、和馬はいま初めて知らされていた。

 

「この国の深いところで、いま、静かな戦争が起きている」声は言った。「地に足のついた国づくりを守ろうとする、国益派。そして目先の利のために、街も土地も、外の大きな資本へ明け渡していくグローバリズム派。……特創は、国益派がやむなく立てた覆面の機関だ」

 

「その戦争が」和馬は掠れた声で訊いた。「この街と、どう関係が」

 

「川上グループの株を、調べてみろ」声は静かに言った。「あの土建屋の親玉は、自分では街を守っているつもりでいる。だがあの会社の株の少なからぬ部分は、とうにグローバリズム派に連なる資本へ握られている。……川上は気づいてすらいない。自分が、もっと大きな波に、ただ動かされているだけだということに」

 

 和馬の背筋が、冷たくなった。

 

 地元の利権の、そのまた奥に、国政の見えない手が伸びている。自分が押し返してきたあの堰は、川上ひとりのものではなかった。もっと大きく、もっと昏いものが、この小さな街を外から飲み込もうとしていた。

 

 ――だがその言葉は、和馬自身の胸にも、まっすぐ刺さっていた。

 

「……では、私は」和馬は乾いた喉で訊いた。「私も、同じじゃないんですか。誰かの描いた絵の上を、気づかずに動かされているだけの」

 

 しばらく、返事がなかった。

 

「動かされているだけの者は」やがて声が言った。「指令の外へは、出ない。……君は四つのどこにも書いていない葡萄を植え、書いていない山へ登り、書いていない連中と手を組んだ。書かれた通りにしか動けん者に、それはできん」

 

「なら、あなたがたにとって、私は何なんですか」

 

「そこは、君が決めることだ」

 

 和馬は目を閉じた。任務だからと自分に言い聞かせて始めた一年だった。だがいま、あの斜面でバケツを渡す手も、湧き水を掬った掌の冷たさも、指令のどこにも書かれていない。書かれていないものだけが、この一年で自分に残ったものだった。

 

 その大きさを思うと、足がすくみそうにもなる。たった一人の下っ端職員に、いったい何ができるというのか。だがと和馬は思い直した。バケツを提げて坂を上った、あの街の人々。芽吹いた葡萄。掘り当てた水。それは大きな波に抗う、小さな、けれど確かな証だ。大都市なら飲まれて終わるものが、この小さな街でなら育つ。特創が万能を選んだ意味が、いま、和馬の腹の底へ静かに落ちた。

 

「なぜ、万能なんですか」和馬は訊いた。「なぜ、こんな小さな街を」

 

「小さいからだ」声に、初めて、人の温度に近いものが滲んだ。「派手な大都市では、波に飲まれて終わる。だが誰も見ていない小さな街でなら――外の資本に頼らず、自分の足で立つ地方創生を、ひとつ証明できる。本物の成功事例を、この国に、たった一つでも残せる。……特創のなかに、それを心から信じている人間がいる。その人物が、数ある街のなかから、この万能を選んだ」

 

 その人物。和馬の脳裏に、土つきの蕪へそっと手をかざした、あの女の姿がよぎった。藤原杏。だが声はそれ以上を明かさなかった。

 

「だが和馬」声がふいに鋭くなった。「君は、一つ目の指令に、夢中になりすぎている」

 

「……一つ目?」

 

「眠る山を、金に変える。木、葡萄、羊、地鶏、キャビア。見事だ。惚れ惚れするほどにな」声は淡々と続けた。「だが――四つの指令を、忘れたか。二つ目。ふるさと納税を、年一億から、百億へ。……君はこの半年、その一億に、指一本、触れていない」

 

 和馬は言葉に詰まった。図星だった。旅と争いに追われるうち、二つ目の指令はいつしか頭の隅へ追いやられていた。

 

「どんなに旨いものを作っても、それを全国の食卓へ、金に変えて届ける出口がなければ、絵に描いた餅だ」声は言った。「山の恵みと、ふるさと納税。この二つが手を結んで初めて、街は回りだす。……一つ目と、二つ目を、繋げろ」

 

 通話は、それで切れた。

 

 その日の午前、和馬は市役所の自席で、庁内の共有フォルダを開いた。

 

 万能市のふるさと納税。検索をかけると、ひどく静かな一覧が出てきた。前年度の受入額、一億二千万円。担当課――地域振興課。

 

 和馬は思わず、隣の島を見た。ふるさと納税の担当は、和馬の席から三つ離れた、窓際の机だった。二つ並んだその机で、身なりだけ妙に垢抜けた二人の女が、黙々と礼状を折っていた。一年前に来た、会計年度任用職員だ。着任早々に出したふるさと納税の改善案が「前例がない」の一行で却下されて以来、二人はもう、手だけを動かしている。

 

「課長。うちのふるさと納税って、あの二人が回してるんですか」

 

「ああ、あの二人か」桑原課長は書類から目も上げなかった。「最初は張り切ってたがな。やれブランドだ、やれ写真だと、細かい案を山ほど持ってきた。だが片手間の部署に、あんな気位の高いのが二人も要らん。前例どおりでいい、と突っ返したよ。……いまはもう、言われたぶんの礼状を折るだけさ。米と、しいたけと、タオル。返礼品なんて、よその真似で並べときゃいい。どうせ都会の連中は、返礼率しか見てないんだから」

 

 ――どうせ。

 

 その二文字が、和馬の胸のなかで、冬の朝市で聞いた諦めと同じ音を立てた。

 

 和馬は返礼品カタログのPDFを開いた。二十四ページ。写真は暗く、説明文は数行。米。しいたけ。木工の箸。タオル。どれも悪いものではない。だがそこには、この街がなぜそれを作れるのかという話が、一行も書かれていなかった。

 

 和馬は椅子の背に体をあずけた。

 

 全国の食卓へ、金に変えて届ける出口。その出口は、遠い霞が関にあるのでも、県庁にあるのでもなかった。この一年、自分が毎日座っていた、この島の窓際にあったのだ。旅に出て、山へ登り、議場を睨んでいるあいだ、二つ目の指令はずっと、和馬の三つ隣で、腐らされた二人の手のなかで、黙って封筒に礼状を詰めていた。

 

 地域振興課の下っ端という隠れ蓑を、和馬は都合よく着ていたつもりだった。だがその椅子は、隠れ蓑であると同時に、この街のいちばん細い出口の栓を握る場所でもあった。役所の内側にいる意味を、和馬はこのとき初めて正面から捉えた。

 

 そしてもう一つ。特創の声が置いていった言葉が、頭のなかでゆっくりと形を探しはじめていた。

 

 ――外の大きな資本へ、街も土地も明け渡していく流れ。

 

 和馬の耳の底で、旅先の声が次々に鳴った。吉野の高野。安い外材が入ってきて、日本の山は捨て値になった。野渕の爺さん。種を買わされる仕組みになった。知床の本間。牛や羊の餌まで、海の向こうから買わされてる。余市の杉山夫妻。びっくりするほど安い輸入ワインには、安いなりの理由がある。日向の鈴木。船で何十日も揺られて腐らない柑橘には、腐らないだけの薬が撒かれている。野辺山のユウ。この国の電気の七割は火力で、その燃料はほとんど輸入だ。

 

 木も、種も、餌も、酒も、果物も、電気も。

 

 ばらばらに聞いた話が、いま、同じ向きにそろって並んでいる。この国は、いつのまにか、暮らしの根っこを外から買うことに慣れきっていた。安いから、という、たったそれだけの理由で。

 

 だが――その全体がどんな形をしているのか、和馬にはまだ掴めなかった。糸の端が、指に何本も触れている。その先が一つの手に握られているのかどうかまではまだ見えない。ただ、川上の背中がひどく小さく見えたことだけが、確かだった。

 

 その日の夕方。和馬は鎮守の森で、爺を待った。

 

 毛糸の帽子の老人はいつものように、どこからともなくふらりと現れた。

 

「キャビアを、育てたいんだろう」爺は和馬の顔を見るなり言った。「石灰の水は、見つけた。だが育て方を知らねえ。――西へ、飛べ」

 

「西……」

 

「岡山の、新見って街だ」爺は山の向こうを顎でしゃくった。「そこにも石灰の山がある。カルスト、ってやつだ。その水でチョウザメを育て、キャビアを作ってる連中がいる。この国じゃ、指折りの本物さ」

 

「石灰の山なら、万能と同じですね」

 

「同じなもんかい」爺はふん、と鼻を鳴らした。「あっちの水は、カチカチの硬水だ。おまえんとこの湧き水は、石灰の山から出るくせに、角の取れた軟水だろうが。同じ石灰の山から、まるで違う水が出る。……そこが面白えんだ」

 

 和馬は思わず身を乗り出した。

 

「向こうの技を、そっくり持って帰ってくりゃいいと思ってんなら、やめとけ」爺は杖の先で足元の落ち葉をよけた。「水が違えば、魚の育ち方も、餌のやり方も、水の回し方も変わる。真似は、真似で終わる。……水の違いが分かる奴に会って、なぜそうするのかを訊いてこい。そこまで持って帰れりゃ、おまえの街の水に合う育て方は、おまえたちで組める」

 

 その通りだった。この一年、和馬が旅先で持ち帰ってきたのはいつも技そのものではなく、その技がなぜそうなっているのかという理由のほうだった。

 

 特創の声と、爺の指。二つの糸が、また同じ一点を指していた。

 

「案内役は、若えのだ」爺はにやりとした。「海の向こうで育って、英語をぺらぺら喋る。料理も、養殖も、両方こなす、変わった二十代さ。名を、龍之介っつう。……面白いぞ」

 

 海を渡って育った、二十代の養殖の達人。これまで出会ってきた、山を守る老人や、故郷の宝を継いだ職人たちとは、また違う匂いがした。古い知恵ではなく、新しい風。会ったこともないその若者に、和馬は奇妙な胸の高鳴りを覚えた。

 

 そして爺は思い出したように付け加えた。

 

「それとな。その新見のキャビアは――ふるさと納税で、飛ぶように売れてるらしいぞ」

 

 和馬の胸が、鳴った。

 

 黒金の、育て方。そして二つ目の指令――ふるさと納税の、出口。爺はその両方を、たった一つの旅先で和馬に掴ませようとしていた。一つ目と、二つ目を、繋げろ。特創の声が、耳の奥で、爺の言葉と重なった。伝書鳩はいつも、和馬が次に掘るべき一点を、正確に指し示す。

 

 その夜、和馬は出張の伺いを書いた。地域振興課、係員、大森和馬。用務――先進地視察、岡山県新見市。有給と公休を継ぎ足せば、三日は取れる。

 

 判子をもらいに行くと、桑原課長は伺い書を一瞥して、鼻を鳴らした。「またか。おまえ、ほんとに休みの使い道がそれでいいのか」

 

「はい」

 

 課長は判子を押した。押しながら、聞こえるか聞こえないかの声で言った。「……せいぜい、いいもん見てこいや」

 

 和馬は書類を受け取りながら、その横顔をちらりと見た。どうせ、と言った同じ口だった。この街の諦めは、どこまでが本心で、どこからが諦めたふりなのか。和馬にはまだ、判じかねた。

 

 旅の支度をしながら、和馬は指先の絆創膏をそっと撫でた。

 

 刃を仕込んだ、あの脅し。川上の――いや、その奥にいる、もっと大きな手の、追及。留守のあいだに、また部屋を物色されるかもしれない。だが退くわけにはいかなかった。この街の反転は、もう、川上ひとりとの喧嘩ではない。国を外から飲み込もうとする、大きな波との、静かな戦争なのだ。

 

 窓の外、線路の向こうで、最終の一本がホームへ滑り込み、一度、後ろへ下がった。

 

 まっすぐ進むより、深く折り返す。和馬は西へ――岡山の、石灰の街へ飛ぶ。黒い宝の育て方と、眠った街を回す出口。その両方を、この手に掴むために。

 

(第20話 了)

 

この記事をシェアする

著者

野口 和彦

野口 和彦

選挙 飯能市長選挙 (2025/07/20) 9,608 票
選挙区

飯能市

肩書 会社役員 マーケティングコーチ 健康管理士一般指導員 前飯能市議会議員(3期)
党派・会派 無所属
その他

野口 和彦さんの最新ブログ

野口 和彦

ノグチ カズヒコ/51歳/男

月別

ホーム政党・政治家野口 和彦 (ノグチ カズヒコ)小説『スイッチバック』 第20話 四つの指令、ふたたび

icon_arrow_b_whiteicon_arrow_r_whiteicon_arrow_t_whiteicon_calender_grayicon_email_blueicon_fbicon_fb_whiteicon_googleicon_google_whiteicon_homeicon_homepageicon_lineicon_loginicon_login2icon_password_blueicon_posticon_rankingicon_searchicon_searchicon_searchicon_searchicon_staricon_twitter_whiteicon_youtubeicon_postcode