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小説『スイッチバック』 第17話 堰、動く

2026/8/3

 

 紅金の芽は、日ごとに緑を濃くしていった。加藤が借りうけた南向きの斜面で、若い蔓が支柱を這いのぼりはじめ、朝市の子どもたちは、毎朝その背比べを楽しみにしていた。だが六月に入ると、山あいには初夏とは思えない乾いた風が吹きつづけ、雨はいっこうに落ちてこなかった。

 

 それでも苗が萎れることはなかった。斜面の上を、農業用水が流れていたからだ。街の田畑を何十年も潤してきた、当たり前の水。日照りが続こうと、あの水路さえあれば畑は保つ。誰ひとり、その存在を疑ったことすらなかった。

 

 異変に気づいたのは、丸木だった。ある朝、斜面の上を流れているはずの用水路が、からからに干上がっていたのだ。石を裏返しても、湿り気ひとつない。上流のどこかで誰かが水門を閉じた――そうとしか考えられなかった。

 

 原沢が半日で、その出どころを突き止めてきた。斜面へ水を引く古い農業用水は、地元の水利組合が管理している。そしてその組合の実権を握るのは、川上に長く連なる古い顔ぶれだった。表向きの理由は「水路の緊急点検」。だが点検が終わる見込みは、どこにも示されていない。

 

「露骨だな」まさひろが舌打ちした。「芽が出た途端に、これか」

 

 和馬は答えられなかった。役所の窓口では、場所を貸さなかった。今度は、水を止める。上から水を流し、下の芽を渇かして殺す。川上の堰は、いよいよその本性をむき出しにしていた。

 

 その日から、加藤と朝市の子どもたちが如雨露で水を運びはじめた。だが如雨露の水など、斜面いっぱいの畑には焼け石だった。朝に撒いた分は昼までに乾き、日が傾くころには、土が白く粉を吹いている。子どもの細い腕では、坂を一往復するのがやっとだった。日ごとに、葉の色が褪せていく。

 

 同じころ、市役所の和馬の耳に、もう一つの報せが忍び込んできた。

 

 地域振興課の島で、桑原課長が電話を切りながらひとりごちたのだ。「地域経済牽引事業計画? ああ、今度の六月議会で廃案だよ。県が妙な気を起こす前に、けりをつけるんだと」

 

 和馬の指が、キーボードの上で止まった。

 

 地域経済牽引事業計画。地域未来投資促進法という、堰の外を通るただ一つの水路。市の頭ごしに、県と国の金と権限を、この街へ引き込める唯一の筋道だ。だがこの計画は、市議会が承認しなければ一歩も進まない。そして市議会は、川上の掌の内にある。ここで廃案にしてしまえば、県がどれだけその気になろうと、二度とこの街へは手を伸ばせない。桑原の言う「県が妙な気を起こす前に」とは、そういうことだった。

 

 その入口の扉が、月末に開かれる六月議会で完全に閉ざされようとしていた。芽吹いた紅金を渇かして殺し、そのうえで、街の未来へ続く水路そのものを埋め立てる。川上は二つの堰を同時に下ろしにきていた。

 

 そしてその報せは、いつものように、和馬の机の上を素通りしていった。廃案を決めるのは議会で、地域振興課の下っ端に意見を求める者などいない。街を興すための課にいながら、街が枯らされていく音を、ただ黙って聞いている。役所の椅子は、こういうときだけ、やけに深く沈んだ。

 

 その夜、純喫茶に皆が集まった。いつもの熱は、どこにもなかった。

 

 原沢が調べ上げた資料を卓に並べた。水利組合の水門操作に、表向きの違法性はない。点検を口実にされれば、外からは手が出せない。そして地域経済牽引事業計画の廃案動議も、議会の多数を握られていれば止める術がない。二つの堰は、どちらも法の内側から静かに下ろされていた。

 

「正面から殴るな、と爺は言った」和馬は呟いた。「殴れば、殴り返される。回り込め、と」

 

「回り込むって、どこへ」まさひろが苛立たしげに煙を吐いた。「水も、議会も、あいつの掌の上だぞ」

 

 誰も答えを持っていなかった。芽吹いたばかりの緑が、大人たちの都合で静かに枯らされようとしている。その理不尽さだけが、店の空気に重く澱んでいた。

 

「組合長のところへは、私が行ってみる」加藤がそう言って出ていった。だが翌日戻ってきた彼女の顔には、初めて見る疲れの色があった。

 

「だめだった」彼女は力なく笑った。「お茶も出してくれた。昔話にも付き合ってくれた。……でも、水門のことになると、目を伏せて、『悪いね、加藤さん。上からの指示なんだ』って。あの人、川上さんに頭が上がらないの」

 

 人の懐に飛び込む天才の、その魔法が初めて通じなかった。書類の壁なら迂回できても、人が恐怖で縛られているとき、温もりだけでは、どうにもならない。加藤はうつむいた。

 

 和馬はその丸まった背を見ていられなかった。役所の内から水路を探すことはできる。だがいま目の前で渇いていく苗にも、うなだれるこの人にも、自分は一杯の水すら注げない。国の法令集の背表紙が、急に、ひどく薄っぺらく思えた。

 

 その夜、和馬は誰にも告げずに動いた。水利組合の実権を握る、川上に長く連なる古参のもとへ、たった一人で乗り込んだのだ。地域振興課の権限を盾に、こちらにも水路の一斉点検を打つ手はある――そう匂わせて、閉じた水門をこじ開けさせようとした。回り込め、という爺の言葉を、焦りのなかで、和馬は自分から踏み越えていた。

 

 結果は、最悪だった。

 

 翌朝、桑原課長が上へ呼びつけられた。「おまえのところの職員が、越権の脅しをかけて回っているそうだな」――組合の古参は、和馬の一手を、その日のうちに川上へ通していた。水門はいよいよ固く閉ざされ、加藤に貸された斜面の借り受けにまで、横槍が入りかけた。正面から殴った。殴り返された。しかもその拳は、自分にではなく、加藤や課長のほうへ返っていた。

 

 和馬は、ざらつく後悔を噛んだ。焦って上を叩いたぶんだけ、川上に手の内を一枚、余計に見せた。潜っているはずの自分が、川上の目の前へ、自分から顔を突き出したのだ。

 

「……回り込め、か」和馬は、絞り出すように呟いた。純喫茶で口にしたときは、ただの言葉だった。自分の拳が返ってきて初めて、爺のあの一言が、骨の髄まで沁みた。「上の水門は、もう叩いても開かない。……上から水が来ないなら」

 

 その先を、低く継いだのは、それまで黙って地図を睨んでいた、丸木だった。

 

「――下から、汲み上げりゃいい」

 

 翌朝、丸木は斜面を端から端まで歩き回った。ときどき屈んでは地面に手を当て、耳を澄ませる。傍から見れば、ただの奇行だった。だがその横顔は、蜂の巣の在処を探るときと同じ真剣さだった。

 

 斜面の中ほど、一本の古い椎の木の根方で、丸木の足が止まった。

 

「……ここだ」彼は土に耳を当てたまま言った。「この下を、水が流れてる。石灰の岩をくぐってきた水だ。冷たくて、綺麗で――そのくせ、やわらかい」

 

 半信半疑の一同が、そこを掘った。三十センチ。五十センチ。やがて、しみ出した水がみるみる澄んだ溜まりを作った。

 

 石灰の山が抱えていた、自前の水。組合の用水路がなくても、この土地は地面の下に、ちゃんと水を持っていた。ただ、誰も汲もうとしなかっただけで。

 

 丸木は湧き出た水を手にすくい、ひと口、含んだ。「……軟水だな。石灰の岩を抱いた山から湧くのに、角が立ってねえ。岩盤をすり抜けて、まろやかなままだ」彼は、もうひと口すすった。「こういう水は、飲むだけじゃもったいねえ。いい魚が育つ水だ」

 

 ぽつりと漏らしたその一言の意味を、このときの和馬はまだ知らなかった。深い山が抱えたこの冷たい水がやがて街の食の最後の一皿を生むことになるとは。

 

 和馬の背筋を、電流が走った。野渕の種。幻の地鶏。南の柑橘。そしてこの水。足元の宝は、いつも、掘り起こされるのを待っている。

 

「丸木さん、あんた……」原沢がめずらしく絶句し、それから、ふっと笑った。「土をこする口癖も、たまには役に立つな」

 

「たまには、じゃねえ。いつもだ」丸木が泥だらけの顔で胸を張った。

 

 だが軽口の裏で、丸木の指はまだ、湧いた水の冷たさをそっと確かめていた。蜂を追い、地に耳を当てて水脈を聴く――この古い技の、たぶん最後の一人だった。倅もなく、弟子もない。いつか自分とともに、土に還って消える技だ。その丸木を、この街が、いま必要としている。柄にもなく、彼はいつまでも、その水面を撫でていた。荒れた声の下に沈んでいたものが、束の間、指先から溢れていた。

 

 だが湧いた水を斜面じゅうの苗へ届けるには、まだ時間が足りなかった。ポンプも、新しい水路も、一日では引けない。そして渇いた苗は、もう待ってくれない。葉の先が力なく垂れはじめていた。

 

 そのとき動いたのは、シスコだった。

 

 彼女はママ友のLINEにたった一行を流した。〈万能の未来が、渇いてます。バケツ一杯、貸してください〉

 

 その一行が、街の目に見えない神経を駆けめぐった。

 

 昼過ぎには、斜面の下に人が集まりはじめた。朝市の仲間。子どもを連れた母親。縁台で茶をすすっていた年寄り。「ワインなんぞ」と鼻で笑っていたはずの商店街の主人まで、バケツを提げて坂を上ってきた。

 

 誰かが号令したわけではない。シスコの一行が次の一行を呼び、その一行がまた誰かの手を動かした。魚屋は台車に水のポリタンクを積んできた。小学校の教師は、放課後の子どもらを引き連れてきた。腰の曲がった老婆が、小さな片手鍋にそれでも並々と水を汲んで、一歩ずつ坂を上ってくる。その鍋を、若い父親がそっと受け取った。

 

「無理すんな、ばあちゃん。俺が運ぶよ」

 

「なんの。あたしゃ、この街の水で六十年、米を作ってきた女だよ」

 

 水路を止められた街が、水路のかわりに、人の列になっていた。

 

 湧き水の溜まりから、一杯、また一杯。手から手へ、バケツが渡っていく。子どもたちがこぼしながら苗のあいだを駆ける。加藤が一本ずつ根元に水を注いでは、「がんばって」と声をかける。

 

 川上は上流の水門を閉じることができた。だが街の人間の、その手までは閉じられなかった。

 

 夕暮れ、水が斜面の隅々まで行き渡ったとき、そこには、汗と泥にまみれた大勢の笑顔があった。垂れていた葉の多くが、少しずつ頭をもたげはじめている。

 

 だが――斜面のいちばん上の段は、間に合わなかった。

 

 湧き水から遠く、いちばん最後に水の届いた、三分の一。その苗は、根まで渇ききって、もう二度と葉を起こさなかった。余市の杉山夫婦が分けてくれた苗。源蔵が三十年待った土に、みなで一本ずつ植えた、あの列だ。翌朝、和馬が抜いてみると、白かった根は、茶色く縮れて折れた。

 

 水門ひとつで、紅金の三分の一が、この世から消えた。バケツの列は、街の心を救った。だが、失ったものは戻らない。植え直しても、また実のなる木になるまで、何年もかかる。

 

「……悔しいねえ」源蔵が、枯れた一本を掌に載せて、ぽつりと言った。その皺だらけの手が、かすかに震えていた。

 

 和馬は、奥歯を噛んだ。水を止めれば、芽は枯れる。この痛みを、忘れまい。次は――枯らさせない。

 

「……なんだか」やがて加藤が、残った苗を見渡して、涙をぬぐって笑った。「それでも、この街、諦めてなんか、いなかったのね」

 

 和馬は坂の上から、その光景を見ていた。役所の書類でも、国の補助金でもない。ただ、渇いた芽を見過ごせなかった人間たちが、手にバケツを提げて、勝手に坂を上ってくる。

 

 これだ、と和馬は思った。彼がこの街に本当に根づかせたかったのは、立派な事業でも洒落たワインでもなかった。困っている隣を、誰かが放っておかない――そういう当たり前の温もりが、当たり前に回る街。金にも、体にも、人の縁にも、独りきりで悩まなくていい街。その、いちばん最初の一滴が、いま、この斜面に注がれていた。

 

 役所の椅子からは、この一滴は決して生まれない。上から配れるものではないからだ。下から、勝手に湧いてくる。あの湧き水と、まったく同じように。

 

 その光景を、街を見下ろす高台の一室から、川上孝政が双眼鏡で見つめていた。

 

 水門を閉じれば、素人の夢など数日で枯れる。そのはずだった。だが斜面には、バケツを提げた街の人間が、蟻の行列のように連なっている。彼の予定表には、なかった光景だった。

 

「……水一杯で、動く連中か」川上は低く呟いた。その声に、苛立ちと、ほんのわずかの別の何かが混じる。若い時分、まだ橋も道もなかったこの街で、大人たちが総出で川に石を運んだ日のことがふと、遠く胸をかすめた。だが彼はすぐに首を振った。感傷は、秩序を守る邪魔になる。

 

「かまわん」彼は傍らの男に言った。「水は、しょせん時間稼ぎだ。本丸は、今度の六月議会。地域経済牽引事業計画さえ潰せば、あの斜面に未来はない。――議員を固めておけ。一人残らず、な」

 

 水の堰は、破られた。だがもっと大きな堰が、月末の議場で下りようとしていた。芽吹いた紅金と、街の未来へ続くただ一つの水路の、その上に。

 

(第17話 了)

 

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著者

野口 和彦

野口 和彦

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飯能市

肩書 会社役員 マーケティングコーチ 健康管理士一般指導員 前飯能市議会議員(3期)
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