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小説『スイッチバック』 第16話 紅金、芽吹く

2026/8/3

 

万能へ帰ると、山あいは初夏の緑にむせ返っていた。旅の欠片は、すべてそろっている。石灰の赤、潮風の羊、日陰の牧場、幻の地鶏、南の隠し味。だがそのどれも、まだ和馬の頭のなかにしかなかった。長い旅で集めてきたのは、結局のところ一枚の絵にすぎない。その絵を、いよいよ土に変える最初の一歩が今日だった。

 

 余市の杉山夫婦が分けてくれた葡萄の苗は、この冬を万能ファームの小屋で越し、白い根をしっかりと張っていた。石灰の岩盤が育てる、この土地の赤。ブルゴーニュと同じ石灰質を好む品種を選んである。植える先も、和馬は目星をつけていた。街を見下ろす、日当たりのいい南向きの斜面。市が持て余している遊休地だった。

 

 だが地域振興課の窓口で相談すると、返ってきたのは意外な"親切"だった。桑原課長が地図を広げてみせる。「その斜面は、権利関係が面倒でね。かわりに、こっちはどうだい」――示されたのは、谷底の、日の差さない湿った荒れ地だった。水はけも悪く、重機も入らない。葡萄どころか、夏草を刈るだけで一日が終わる土地だ。

 

 役所の、いつもの手だった。やる気のありそうな借り手が来ると、良い土地は出し渋り、わざと厄介な荒地を勧めて、早々に諦めさせる。正面から拒むのではなく、うんざりさせて、自分から引き下がらせる。和馬はその狡さに奥歯を噛んだ。噛みながら、胸の奥が、ちくりとした。この手口を、いちばんよく知っているのは、ほかでもない、その課の机に毎日座っている自分だった。昨日までは、こちら側で判子を押していたのだ。

 

 諦めかけた和馬に、明るい声が飛んできたのは、その日の夕方だった。

 

「役所を通すから、そうなるのよ」

 

 鎮守の森の朝市で、加藤が事もなげに言った。両手には、いつものように土がついている。「いい斜面なら、あるわよ。役所なんて、通さなくていいの」

 

「通さない?」

 

「うちのファームの畑、半分くらいは、そうやって借りてるの」加藤はいたずらっぽく笑った。「使われなくなって荒れ放題の山林や農地なんて、この街に山ほどあるでしょう。持ち主は、たいてい市外に出たお年寄り。管理を持て余してる。だから私、その人たちのところへ、直接会いに行くの」

 

 彼女は人の懐に飛び込むのが天才的にうまかった。お年寄りの家に上がり込み、お茶を飲み、昔話に相槌を打ち、庭の草を一緒に抜く。気づけば「あんたなら、好きに使っていいよ」と、鍵ごと土地を託されている。役所の書類一枚では決して動かない土が、彼女の笑顔の前では、あっさりと動いた。

 

「南向きの、日当たり抜群の斜面。持ち主のお婆ちゃんに、もう話はつけてあるの」加藤は胸を張った。「ワインを造るって言ったら、それは面白いねえ、って。生きてるうちに一度飲んでみたい、って」

 

 和馬は彼女の顔をまじまじと見た。市外から一時間かけて通い、この土地に恋をした女は、和馬が役所のなかでずっと見失っていたことを知っていた。土は、役所のものではない。人のものだ。そして人の心は、書類ではなく、人の温もりでしか動かない。

 

 その週末。加藤が借りうけた南向きの斜面に、朝から人が集まった。

 

 チーム万能の面々に、万能ファームの就農者たち。加藤に手を引かれた朝市の子どもたち。杖をつきながら、野渕源蔵までがゆっくりと坂を上ってきた。旅のあいだ日本じゅうに散らばっていた欠片が、いまは一つの斜面に、肩を並べている。

 

 丸木がまっさきに鍬を入れた。ひと掘りすると黒い土を指でこすり、匂いを嗅ぐ。

 

「……いい土だ。石灰がよく効いてる。水はけも上等だ。葡萄が喜ぶぞ」

 

「丸木さん。それ、タマシャモのときとまったく同じ台詞ですよ」原沢が巻尺で苗の間隔を測りながら真顔で言った。「野辺山でも、あなたは井戸を覗き込んで、同じことを言ってた。もう完全に口癖だ」

 

「うるせえ。土が正直なんだからしょうがねえだろ」

 

 どっと笑いが起きた。まさひろは黙々と支柱を打ち込み、シスコは子どもたちに、苗を折らない持ち方を教えている。ゆきはといえば、汚れひとつ許さぬはずの指で電卓を弾き、「一本の木が実をつけるまで何年で、その間いくら溶けると思ってんだい」と誰にともなく呟いていた。それでいて皆のなかでいちばん深く、いちばん丁寧に、穴を掘っている。土のついた膝を、彼女は少しも気にしていなかった。

 

「ゆきさん、口ほどにもなく優しいんだから」シスコがからかうと、金庫番は静かに立ち上がり、汗ばんだ額に落ちた黒髪を、指の背でそっと払った。「土を掘ってると、頭が空っぽになるだけさ」その横顔の耳がほんの少し赤いのを、誰もあえて指摘しなかった。

 

 ゆきが一円にこれほど厳しいのには、わけがあった。若いころ、ひとつ、店を持っていた。補助金と借金で背伸びして広げ、風向きが変わったとたん、金は潮のように引いていった。人の金で建てた城は、人の都合で、あっけなく崩れる。あの日から、ゆきは決めていた。自分の稼ぎで立てた足だけが、裏切らない、と。彼女が補助金を嫌い、身銭を切った民間の器にこだわるのは、他人の金に街の未来を握らせたくないからだった。二度と、あんな崩れ方を見たくないからだった。

 

 昼になると、加藤が大きな握り飯と自家製の梅干しを皆にふるまった。土のついた手で頬張るそれは、どんな料理よりうまかった。

 

「ちょっと、みんな。腰、やられるわよ」ひとしきり食べると、加藤が立ち上がった。「はい、両手を上げて、大きく伸びて。息を吸って――吐いて」

 

 ヨガインストラクターの号令に、泥だらけの一同が、斜面でのろのろと両手を上げる。まさひろの背骨が、ごきりと鳴った。「うおっ、効くな、これ」

 

「和馬さんも。ずっと役所で縮こまってるんだから」加藤に笑われ、和馬も青い空へ両手を伸ばした。初夏の風が、汗ばんだ体をすっと抜けていく。旅の疲れも、役所の澱も、その風に少しずつほどけていった。

 

 妙な連中だ、と和馬は思った。血の繋がりもない。育った町も、歩いてきた道も、ばらばらだ。それなのに今、同じ斜面で同じ土に手を汚し、同じ空へ伸びをしている。これが街だ、とふいに思った。上から与えられるものではなく、下からこうして、勝手に育っていくもの。

 

 ――だがその輪の真ん中で、和馬はひとつだけ、皆に言えないものを抱えていた。ここにいる誰もが、和馬を、街を想う仲間だと信じている。誰ひとり、この男が国から送り込まれた工作員だとは知らない。この温かい土の輪でさえ、和馬にとっては、顔も知らぬ上の者が描いた絵図の、ひとこまなのだ。その後ろめたさを、和馬は鍬の柄を握る手にそっと押し込めた。守るために欺いているのか、欺きながら守っているのか。その答えは、まだ出せなかった。

 

 和馬は最初の一本を両手で抱えそっと土に据えた。余市の寒さ、吉野の木、知床の風、野辺山の陽、日向の香り。旅で出会ったすべての顔が、この細い一本の苗木に託されていくようだった。この国は、酒までよそから安く買うことに慣れきっている。だが杏子は言った。この土でも、本物の一本ができる、と。その一本を、いま、この手で植えている。

 

 最後の一本が植わると、源蔵が苗の列を見下ろして、ぽつりと言った。「三十年、この土は待ってた。石灰の岩盤が育てる葡萄を、な。……やっと、来た」

 

 待っていた。ずっと。ようやく。和馬の胸の奥で、源蔵が朝市で最初に口にした言葉が静かに響いた。この土は、もう待っている――あのとき謎めいて聞こえた一言が、いま、目の前の土に根を下ろしていた。

 

「言っときますけどね」ゆきが腰を伸ばし、汗を拭った。「この苗が酒になって、一円でも生むまで何年もかかる。それまで、赤字を垂れ流すだけの木を、みんなで守り育てるんだ。夢に酔うのは勝手だけど、覚悟だけは、しときな」

 

「分かってます」和馬は頷いた。「でも、これはただの木じゃない。この街がまだ諦めていないっていう、いちばん確かな証拠なんです」

 

 沈みかけた船の底に、細い緑が一本まっすぐに立っていた。

 

 それから、半月。

 

 朝の斜面に、和馬は一人で立っていた。露に濡れた土から青い草の匂いが立ちのぼっている。

 

 昨日まで、そこになかったものが、あった。植えた苗の節の脇で、かたく閉じていた芽が、ほどけている。小さな赤みを帯びた新芽が、朝日のなかでかすかにふるえていた。ひとつではない。見渡せば、斜面じゅうの苗がいっせいに同じ赤い芽を吹いていた。

 

 和馬はしゃがんで、その一枚にそっと指を触れた。やわらかい。冷たい露と、確かな体温のような、そのあわいの熱。頭のなかにしかなかった一枚の絵のいちばん最初の一行が、いま、指の下で生きてふるえている。指先の、その小さなふるえが、まっすぐ胸を突き上げてきた。和馬は、こみ上げるものをひとつ、飲み下した。旅で流した汗も、役所で噛んだ屈辱も、封筒の重みも、この一枚の赤い芽のために、あったのだ。

 

 根づいたのだ。この街の長いあいだ眠っていた石灰の土が、はるばる北から来た葡萄を確かに受け入れた。よそ者を拒まず、その根を深く抱きとめた。加藤と、同じように。そして逃げ帰った自分を、もう一度受け入れてくれた、この土のように。

 

「芽吹いたわね」

 

 いつのまにか、加藤が隣に立っていた。目にいっぱい涙をためて、それでも笑っている。斜面の下から、子どもたちが歓声をあげて駆け上がってきた。「芽が出た!」「ほんとだ、赤い芽!」

 

 紅金(くれないきん)が、芽吹いた。

 

 諦めと中央依存に沈んだ街の、誰も見向きもしなかった荒れ斜面に。もう誰にも踏み消せない、小さな赤い火がひとつ灯った。

 

 その日のうちに、芽吹きの報せは、朝市の口から口へ、シスコのママ友の網へと、街の隅々へじわりと広がった。半信半疑で斜面を見に来た者が、赤い新芽を目にして思わず笑みをこぼす。万能で、ワインだってよ。夢みてえな話だが芽は、ほんとに出てら。諦めに澱んだ空気へ、小さな、けれど確かなさざなみが立ちはじめていた。

 

 そのさざなみの端に、ひとりの女が静かに立っていた。仕立てのいい麻の上着。藤原杏だった。彼女は斜面の赤い芽にそっと手のひらをかざし、目を閉じる。土の声を聴くときの、あの巫女の所作だった。しばらくして、誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。「……根が、張ったのね。ここまで待って、よかった」その口元に、かすかな笑みが浮かぶ。だがその笑みが味方のものなのか、それとも別の何かなのか――少し離れて見ていた和馬にも、やはり読めなかった。ただ、待っていた、というその言葉だけが、源蔵の声と、同じ井戸から汲まれたように、耳に残った。

 

 だがその小さな緑を、街を見下ろす高台の一室から双眼鏡で捉えている目があった。

 

 川上孝政。

 

「葡萄、か」彼は低く呟いた。「役所に相手にされんかった素人どもが、今度は勝手に、街の形を変えようとしとる」

 

 彼のなかで、それは守るべき秩序への明らかな脅威だった。祖父の代から築き上げた、この街の骨組み。橋も道も、その下で食う何百もの家族も、すべて自分が守ってきたという自負がある。それを、よそ者の思いつきに崩されてたまるか。悪意ではなかった。守るための、正しい手のつもりだった。

 

 双眼鏡の輪のなかを、苗のあいだで泥だらけになったひとりの若い男が横切った。川上の目が細くなる。「……あの、地域振興課の小僧。まだ泳いでおるな」冬に泳がせておけと命じた、あの一匹だった。役所の内に飼ったつもりの魚がいつのまにか、堰の外の土を掘り返している。「思ったより、達者に泳ぐ。潮時か」

 

「あの斜面の水利権を調べろ」川上は傍らの男に静かに命じた。「それと、例の地域経済牽引事業計画の件。県が本気で動く前に、市議会で確実に潰しておけ。芽のうちに、な」

 

 堰は、また一段高くなろうとしていた。芽吹いたばかりの、小さな赤い火を狙って。

 

(第16話 了)

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著者

野口 和彦

野口 和彦

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肩書 会社役員 マーケティングコーチ 健康管理士一般指導員 前飯能市議会議員(3期)
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