2026/7/27

連休明けの万能市役所は、気の抜けた空気に沈んでいた。
地域振興課――地域を興すはずの課が、いちばん地域に絶望している。皮肉な話だ。和馬は自分の席で、県の畜産資料をそっと繰っていた。回覧に紛れて取り寄せた一枚のコピーに、その鶏の名があった。
タマシャモ。県でただ一つの地鶏。県がひなを供給し、飼う農家はわずか二戸。半世紀ちかく、この県の片隅で静かに守られてきた鶏だった。
「県の地鶏で、町おこしかい」
桑原課長が手元を覗き、鼻を鳴らした。「昔、誰かが同じことを言ってたよ。鳴かず飛ばずで消えた。この街に、そんな余力はない。国から金でも下りりゃ別だがね」
諦め。中央依存。またしても、それだ。この課の口ぐせだった。
だが和馬は、県の畜産部門へ電話を入れ、その農家の在り処を聞き出した。地域振興課の名刺は、こういうときによく効く。冴えない下っ端の、ささやかな役得だった。潜り込んだこの席が、また一つ、扉を開けた。昼は諦めた課の下っ端の顔をして、その同じ手で、街を掘り起こす鍵を、一本ずつ、抜き取っていく。二重の暮らしにも、和馬は、もうずいぶん慣れていた。
窓の外で、桜の若葉が光っていた。地域振興と札の掛かったこの部屋で、誰も地域を信じていない。国の交付金を待ち、前例を守り、波風を立てぬことだけを仕事と呼ぶ。――だが、と和馬は思う。諦めているのは、この課の空気だけだ。街そのものは、まだ死んじゃいない。眠っているだけの宝が、今日もまた一つ、見つかった。
週末。チーム万能は、車を連ねてその農家へ向かった。
驚いたのは、その近さだ。吉野へ、余市へ、知床へ、野辺山へ。日本じゅうを飛び回ったあげく、答えの一つは、車で小一時間の里山の奥に、ひっそりと在った。同じ県の、目と鼻の先に。
「灯台下暗し、ってやつだね」シスコが新緑の窓を見て笑った。
和馬は、笑えなかった。野渕の種と、同じだ。宝はいつも遠くではなく、足元に埋まっている。ただ誰も、掘り起こそうとしないだけで。遠くまで探しに行かねば、足元の値打ちにすら気づけない。――それもまた、この街の病だった。そして、その病を、いちばん深く患っていたのは、ほかでもない、この街を見限って出ていった、和馬のような人間だった。足元を捨てて、遠くにばかり、答えがあると思っていた。
車は、見慣れた景色の中を走っていた。特別な土地ではない。ありふれた里山だ。だがそのありふれた山ふところに、県でただ一つの地鶏が、半世紀ものあいだ静かに守られてきた。誰の目にも留まらぬまま。
里山のふところに、その鶏舎はあった。
金網の向こうで、鶏が悠々と土を蹴っている。狭い檻ではない。放し飼いだ。陽を浴びた羽が赤銅色に鈍く光り、太い脚が地を踏みしめて力強い。和馬の知る、あの白いブロイラーとは、まるで別の生き物だった。
「戸倉です」
鶏舎から出てきたのは、七十がらみの痩せた男だった。目だけが、若い衆のように鋭い。この県でたった二人きりの、タマシャモの作り手の一人だ。
「もとは中華の料理人でね」戸倉は鶏を見ながら言った。「店をやってたころ、廃鶏を百羽ほどもらった。卵を産まなくなった、用済みの鶏さ。潰すのも忍びなくて、裏の空き地に放してやった。――そうしたら」
「そうしたら?」加藤が身を乗り出す。
「三月で、見違えた。羽艶が戻って、また卵を産みだしたのさ」戸倉の目が細くなった。「狭い檻で用済みと決めつけられてた鶏が、土と陽をもらっただけで蘇った。おれはそれに惚れてね。放し飼いに賭けることにした」
用済みの鶏が、蘇る。その言葉が、和馬の胸を、静かに突いた。
沈みかけた街と、同じだ。終わってなどいない。ただ、生かし方を間違えているだけだ。――いや、と和馬は思う。街だけじゃない。東京で、すり減って、用済みと決めつけられ、敗者の顔をして、この土へ戻された男。そのおれもまた、あの廃鶏と、同じなのかもしれない。狭い檻を出て、故郷の土と陽をもらって――知らぬ間に、少しずつ、息を吹き返している。羽艶を、取り戻しかけている。認めるのは、少しばかり、照れくさかった。
「そのころ、県の試験場が面白い鶏を作ったと聞いてね」戸倉は続けた。「大和シャモの血を引いた、この県だけの地鶏。それが、タマシャモとの出合いさ。県が種を守り、おれたちが育てる。半世紀、二人三脚でやってきた」
県が種を守り、農家が育てる。――和馬は、その言葉を噛んだ。よそに種を握られ、毎年買わされる、あのF1とは、逆だ。県が種を握るのは、奪うためじゃない。この土地の一羽を、よそへ流さず、土地の内側で守り育てるための握りだった。同じ「種を握る手」でも、街から吸い上げる手と、街に留める手が、ある。守るための握りなら――それは、味方だ。
和馬は鶏舎に見入った。一羽が砂を浴び、羽を震わせている。その動きに、飼われているという卑屈さがない。野の鳥のように堂々としていた。
餌の桶に、若い衆が飼料をあける。見ると、ただの配合ではない。米や、地元の野菜くずが混ぜてあった。
「餌も、なるべくこの土地のもんでな」戸倉が言った。「鶏は食ったもので味が決まる。よそから買った餌じゃ、よその味にしかならん」
よそから買った餌じゃ、よその味。――知床の本間が言った、あの首輪の話が、和馬の耳の奥で、また鳴った。木も、種も、羊の餌も、そして鶏の餌も。土地のものを、土地の内側で回すこと。それが、味を、そして自分の足で立つ力を、手放さずにいるための、たったひとつの道だった。
そのとき、丸木が金網に指を突っ込んだ。「蜂の巣も素手で落とす男だぞ。鶏の一羽くらい――」
言い終わる前に、いちばん大きな雄のシャモが羽を逆立て、矢のように飛びかかった。丸木が素っ頓狂な悲鳴を上げ、尻餅をつく。
「うわあっ! なんだこいつ、蜂より凶暴じゃねえか!」
原沢が、手帳から目も上げずに言った。「丸木さん。シャモはもともと、闘鶏用に改良された品種だ。気性の荒さは、折り紙つきだよ」
どっと笑いが起きた。戸倉まで肩を揺らしている。まさひろが丸木を指さして、腹を抱えた。
「……原沢。知ってたなら、先に言え」丸木が尻をさすって、ぶうたれる。
「言ったら、この見物が拝めなかっただろう」原沢が、めずらしく口の端で笑った。
ところが、尻餅をついたまま、丸木の顔つきが変わった。地面に手をつき、土をひとつまみ、指でこすっている。「……なあ。ここの土、水はけがいい。この湿り気――いい水が湧いてるな。地の底にゃ石灰の岩があるはずだが、水そのものは、硬くねえ。岩盤を長く潜ってきた、角の取れた、やわらかい軟水だ。飲んでうまい水さ」
「よくわかったな」戸倉が目をみはった。「裏の山から引いた湧き水で育ててる。あれが、この鶏を丈夫にするのさ」
「ほら見ろ原沢。おれの目は、ごまかせねえ」丸木が得意げに胸を張った。尻の泥も払わずに。
「蜂と石にだけはな」原沢がすかさず返す。また、笑いが起きた。
だが、和馬は、丸木が拾ったその一言に、胸の奥がざわりとするのを感じていた。石灰の岩を抱いた土地なのに、湧く水は、角の取れた、やわらかい軟水。――それは、この県の里山の水だ。だが、その源は、もっと上にある。石灰の山と、深い岩盤を併せ持つ、水源地。万能だ。この地鶏を丈夫にする、清らかな軟水と、同じ水が、万能の岩盤の底には、もっと豊かに、眠っているはずだった。丸木の、あの水と石を見抜く目が、いつか、その源を探り当てる予感が、かすかにした。だが、それが何を生むのかは、まだ、誰にも見えていなかった。
「よそにない鶏を作る」戸倉がぽつりと言った。「その一心でやってきた。名古屋にも秋田にも負けん、この土地だけの一羽をな。効率を追えば、とうに潰れてた。それでも味は、譲らなかった」
昼、戸倉はその鶏を焼いてくれた。味つけは、塩と胡椒だけ。
和馬は一切れを口に運んだ。
歯が、押し返される。締まった、確かな歯応え。噛むほどに脂の甘さと濃い旨味がにじみ、それでいて鶏特有の癖はまるでない。
「うまい……!」まさひろが唸った。シスコも、目を丸くして頷いている。
「これは……鶏じゃない。肉だ」原沢が、めずらしく箸を止めて言った。数字ばかり追う男が、その一切れの前で、言葉を失っていた。
数字は、裏切らない。原沢がそう信じるようになったのは、遠い昔、人を信じて手ひどく背かれたからだった。情に流されて読みを誤れば、いつだって人が去っていく。以来この男は、心が波立つ手前で、いちど数字へ退避する癖がついた。だからこそ――理屈を越えて舌が唸ったこの一瞬を、原沢は自分でも、少しばかり持てあましていた。
「普通の鶏は五十日で出す」戸倉は静かに言った。「うちのは、その三倍以上――百八十日かける。放し飼いで、じっくりとな。手間も暇も餌代も、みんな三倍だ。効率だけ見りゃ、馬鹿げてる。だが、味は嘘をつかねえ」
効率より、味。この街の、あの諦めた課の空気とは、正反対の言葉だった。足元で光を待っていたのは、山や農地だけではなかった。この一羽もまた、誰にも知られず、静かに時を待っていた。
加藤が、もう一切れを噛みしめている。その目が潤んでいた。うちの街でも、これを――そう言いかけて、口をつぐんだ。育て方も、売り方も、まだ何ひとつ決まっていない。
だが、戸倉の顔は、晴れなかった。
「兄さんら、この鶏で街を興すってのかい」戸倉は鶏舎を見た。「言っとくが、甘くねえぞ。おれは半世紀、この味一本でやってきた。それでも県で唯一のまま、農家は二戸きり。処理してくれる場所も、置いてくれる店も、数えるほどだ。誰一人、広げられなかった」
戸倉は鶏舎の柱に、そっと手を置いた。「跡を継ぐ者も、いねえ。おれが倒れりゃ、この味は県から一つ消える。幻は幻のまま、消えちまうのさ」
その声に、諦めはなかった。ただ、静かな悔しさがあった。
和馬の胸に、杣田の、あの止まった帯鋸がよみがえった。倅は二人とも、街を出た。この種の知恵は、俺と一緒に消える――。ここでも、同じだった。守り手が、最後の一人になっている。継ぐはずだった若い手は、みんな、街を出た。この土地の宝を、一つ、また一つと取りこぼしてきたのは、和馬のように、足元を捨てて出ていった者たちだった。戸倉の悔しさは、そのまま、和馬の古傷を、静かに押した。
「なぜです。これほど、うまいのに」
「うまい地鶏なんぞ、全国に掃いて捨てるほどあるからさ」戸倉は苦く笑った。「秋田も名古屋も、名の通った名鶏がひしめいてる。味だけじゃ、この幻は幻のまま埋もれる。ただ育てて、うまいうまいと言うだけじゃ、勝てねえのさ」
競争の壁だった。
原沢が静かに頷き、ゆきが腕を組む。輝いていた加藤の顔が、みるみる曇っていった。
しかも、と原沢が低く言い添えた。あの家畜の条例は、鶏にもかかる。川上の堰は、羊だけでなく、この鶏の道までふさいでいる。
「餌で差をつけるか」まさひろが唸った。「知床の羊みたいに、土地のもんを食わせて」
「それだけじゃ弱い」ゆきが首を振る。「どこの地鶏も、餌にはこだわってる。もっと、誰も真似できん一点が要る」
沈黙が落ちた。名鶏は揃った。だが、それをたった一羽に変える、最後の一手が、見つからない。
安さでは、勝てない。味だけでも、勝てない。高野が言った、あの言葉が、和馬の頭をよぎった。安いほうやのうて、ええほうで、いちばんを取る。これやないと、あかん、と言わせる。――この幻の一羽を、世界にただ一羽の、奪えない味に変える、その決め手が要る。足元の宝を、掘り当てた。だが、掘り当てただけでは、光らない。もう一手――決め手が、要る。それが何なのか。帰りの車のなかで、誰も、口を開かなかった。
その夜。鎮守の森の、朝市の跡地。和馬は一人、考えあぐねていた。
「しけた面は、相変わらずだな」
毛糸の帽子の老人が、いつのまにか隣にいた。小鹿野の爺だ。
「爺さん。地鶏を見つけました。うちの県の、幻の地鶏を。でも、それだけじゃ――」
「勝てねえ。だろ」爺が言葉を引き取った。「鶏はな、鶏だけじゃ勝負にならねえ。どんな名鶏も、裸のままじゃ、他の名鶏に埋もれる。要るのは、その一羽を、たった一羽に変える、隠し味さ」
「隠し味……」
「南だ。日向(ひゅうが)へ飛べ」爺は、暗い空の南を顎でしゃくった。「あったかい海辺に、名も知られちゃいねえ小さな柑橘がある。それで鮨を握る、豪儀な男もいる。その香りを、知ってこい。――泡にも白にも寄り添う、爽やかな一手だ」
「なぜ、そんな隅っこに」
「わからんか」爺は和馬を見た。「その地鶏も、あのスイッチバックも、みんな同じさ。一見、値打ちのねえもん、誰も見向きもせんもんの中にこそ、本物の切り札は、隠れてる。灯台の下と、南の隅っこにな。探しに行く者だけが、それを掘り当てる」
日向。和馬は、その柑橘の名を、まだ知らない。だが伝書鳩は、また行き先を、確かに指していた。
鶏の壁の、その向こうへ。和馬の胸に、南の潮の匂いが、かすかに差してきた。
振り返ると、鎮守の森の闇の奥で、朝市ののぼりが、風に揺れていた。下から芽吹いた、万能ファームの芽。この幻の地鶏を、あの市民の手で育て、たった一羽に変える。そのための最後の一片を、南へ探しに行く。
和馬は夜気を、深く吸い込んだ。
(第14話 了)
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ノグチ カズヒコ/51歳/男
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