2026/7/20

万能市役所の三階は、蛍光灯の白い光で、いつも同じ表情をしていた。
朝八時半。和馬は自分の席に着き、机の上に積まれた回覧板の山を、上から順に片づけていた。地域振興課。地域を振興させるための課だ。名札にもそう刷ってある。だがこの課の空気ほど、地域の未来に期待していないものを、和馬はほかに知らなかった。
旅から帰った翌朝は、いつもこうだ。北の果てで羊の毛の匂いを嗅いでいた指が、今は判子の朱肉で汚れている。〈供覧〉〈起案〉〈合議〉――印影を重ねるたびに、体のなかで何かが一段ずつ、下へ折り返していくのがわかった。和馬はそういう二重の暮らしに、もう慣れていた。慣れることが、この仕事の一部だった。
「よう、旅人さん」
斜め前の席から、桑原課長がコーヒーの缶を片手に振り返った。五十過ぎ。県からの通達を待つのが仕事、と本気で信じている男だ。悪い人間ではない。ただこの街はもう伸びない、と骨の髄まで諦めていた。
「知床の羊は、うまかったかい」
「ええ、まあ」和馬は判子を押しながら、言葉を濁した。「骨休めに」
「若いのは元気でいいなあ」桑原は缶コーヒーをひと口すすって、しみじみと首を振る。「俺なんか、もう遠出する気力もねえよ。……まあ、うちの課で羊を飼うわけでもなし。たまの息抜きも、わるかないやな」
地域を興すはずの課の課長が、地域には何も生えてこないと信じている。そのアイロニーを、和馬は毎朝この席で味わっていた。だが今は、その諦めきった横顔さえ、和馬にとっては使い道のある景色だった。ここは、旅の隠れ蓑であり、同時にこの街の内臓に触れられるたった一つの窓口でもある。県の財政資料も、地域経済牽引事業計画の進み具合も、この課の机を通り過ぎていく。和馬は下っ端の顔をしたまま、その水位を静かに測りつづけていた。
その回覧の束のなかに、一枚の議案の写しが挟まっていた。
〈市生活環境保全条例の一部を改正する条例(案)〉
和馬の指がそこで止まった。総務産業委員会。付議予定。市街化調整区域における家畜の飼養に係る規制の強化――そんな見出しが、事務的な明朝体で並んでいる。
「課長。これ」和馬は写しを掲げた。「家畜の、条例です。うちの課にはなんの説明も」
「ああ、それか」桑原はろくに顔も上げなかった。「議会のほうで、前から温めてたような話だろ。環境の陳情が出てたとか、なんとか。まあ、うちが口を出す筋合いのもんでもねえ。付議されたら、粛々と流れるさ」
前から、温めてたような話。――和馬はその一言を、腹の底に沈めた。前から。誰が、いつから、何のために温めていたのか。この課には一枚の説明もなく、それでも条例はもう、委員会の入口まで運ばれてきている。役所という川のどこか上流で、誰かが静かに水門を開けていた。冴えない下っ端の机の上を、その水は、素知らぬ顔で通り過ぎていこうとしている。
和馬は写しを一枚そっとコピー機に伏せた。原沢に渡す。夜まで、この顔を崩さずにいればいい。
昼の休憩。和馬は庁舎を出て、山あいの空を見上げた。万能の冬は、湿っていた。
知床の乾いた寒さのあとではこの街の空気が、やけに重くやわらかい。低い雲が稜線に垂れ込め、遠い尾根は雨に烟っている。乾いて鋭い北の風とは、何もかもが逆だった。定時を待ちきれず、和馬は旅装のまま――いや、勤め帰りの背広のまま、純喫茶の扉を押した。
「北の土産話、聞かせてもらおうか」
奥の席で、ゆきが帳簿から目を上げた。まさひろ、丸木、シスコ、原沢――チーム万能の顔が、湯気の向こうに揃っている。和馬は腰を下ろすなり、ネクタイを一つ緩めて切り出した。
「羊です。うちの街で、羊を飼う」
「羊」ゆきの眉が、片方だけ上がった。
「知床の羊は臭みがなかった。脂が甘いんです」和馬はあの一皿を思い出しながら言った。「日本人が食う羊肉のうち、この国で育ったのは〇・五パーセントしかない。あとはぜんぶ輸入だ。市場がまるごと、空いてる」
「空いてる市場か」原沢が静かに数字を書き留めた。
「しかも紅金と組める」和馬は身を乗り出した。「世界の泡ワインで、赤はたった二パーセント。その希少な赤の泡に、〇・五パーセントの国産ラムを合わせる。希少に希少を掛ける。誰にも真似のできないたった一つの宴です」
シスコがほう、と息を吐いた。「肉に酒に物語。ママ友連中が、放っておかない絵だね」
「羊毛も糞も乳も出る」丸木が太い指を折った。「捨てるとこがねえ生きもんだ」
まさひろが腕を組んで頷く。だがゆきの目は、冷えたままだった。
「で。その羊は、いつ銭になる」
和馬は言葉に詰まった。
「仔が生まれて育って、肉になるまで何年かかる」ゆきは指を折った。「その間、羊は草を食うだけの金食い虫だ。実るまで誰が餌代を出す。誰が、その赤字を抱える」
余市で、同じ問いを突きつけられた。ワインの木が実る前から、支え手を全国から募る――杉山夫婦の、木のオーナー制度。
「オーナー制度です」和馬は答えた。「実る前から、支え手を全国から募る。育つ様子を毎年届けて、赤字を応援に変える。余市で見た、木のオーナーと同じやり方です」
「その、餌代のことなんですが」和馬は続けた。ゆきが折った指の、いちばん痛いところに、あえて触れにいった。「ふつうの畜産は、餌をほとんど海の向こうから買ってます。国産の肉、と看板を出していても、腹の中を通ってるのは輸入の穀物だ。餌代は、まるごと海外へ流れていく。しかも、値が跳ねても船が止まっても、買いつづけるしかない。抜けられない首輪です」
「首輪、ねえ」ゆきの目がす、と細くなった。数字の匂いを嗅ぎつけた顔だ。
「知床の本間さんは、そこを断ち切ってました」和馬は身を乗り出した。「餌を、全部、地元のはねもんで自家配合してる。売り物にならない規格外の小麦や、砂糖大根の搾りかす。よその国が何をしようが、羊は土地のものだけで腹いっぱいになる。――同じ餌代でも、海の向こうへ消えるのとこの街の畑をもう一度回すのとじゃ、金の行き先が、まるで逆だ」
ゆきはしばらく黙って、指先で卓を叩いた。
「……街から出ていった銭は、二度と戻らん。街の中を回った銭は、何度でも仕事を生む」ゆきは低い声で言った。経営の話になると、そのへんの男を一撃で黙らせる凄みが、その一言に乗った。「餌代を海の向こうに払うんじゃなく、うちの畑に払う。金食い虫の羊が、街に金を回す装置になるってわけか。――なら、話は別だ」
和馬は腹の底が熱くなるのを感じた。ゆきに、餌代を"強み"として認めさせた。だが同時に、本間の低い声が、耳の奥で鳴っていた。よその国が咳ひとつすりゃ、この国の畜舎が飢える。その薄い影は、まだこの街には届いていない。届いていないうちに、その縄に縛られない足腰を、この街に一つでも多く生やしておく。それが、遠からず来る波へのたった一つの備えだと、和馬は思った。
ゆきはしばらく和馬を見ていた。それからふっと口の端を上げた。
「――考え方は、及第点だ。夢に、銭の裏づけがついてきた」ゆきはすぐに真顔へ戻った。「けどな、羊はまだ早い。夏を越せる目処もないうちに、オーナーは募れん。銭を出した相手の羊が暑さで死んだら、信用は一度で終わりだ」
「じゃあどこから」
「先に動かすのは、もう決まってる方さ」ゆきは言った。「紅金だ。葡萄なら、土も作り方も、余市で見てきたろう。壁待ちの羊よりいま植えられる葡萄から、金の流れを作る」
和馬は頷いた。順序が、見えた気がした。まず、決まった紅金から動く。羊はあの夏の答えを――涼しい日陰を作る術をどこかで掴んでからだ。だがその術がどこにあるのか、和馬には、まだ見当もつかなかった。
純喫茶に、小さな笑いと、確かな熱がこぼれた。北の旅は、手ぶらじゃなかった。
――ただ、和馬は背広の内ポケットのあの写しの角を、指先で確かめていた。熱の裏側でもう一つの冷たいものが、そこに畳まれていた。
翌日。昼休みを潰して、和馬は鎮守の森の朝市に、加藤を訪ねた。
万能ファームの世話役だ。四十代のヨガインストラクターで、市外から片道一時間かけて通ってくる。この街の自然栽培に惚れ込み、朝市を切り盛りしながら、傾いた古民家の再生にも汗を流していた。よそ者のはずが、誰より、この土地に恋をしている。
和馬が羊の話をすると、加藤は両手を胸の前で合わせ、目を輝かせた。
「素敵……! うちの、耕せない斜面」加藤の声が弾んだ。「あの荒れた土地に羊を放てば、草を食んで、糞が土を肥やす。使えなかった土地が、お肉とお乳と堆肥を生む。土って、ほんとに正直よね」
冬枯れの境内に、朝市の湯気が立っている。脱サラやUターンの就農者たち。下から芽吹いた、本物の芽だ。この輪を市民の手に取り戻すこと――それが和馬の、いちばん奥の使命だった。
だがその夢は二つの壁に阻まれた。
ひとつは、生き物の壁。
「羊は暑さに弱いんです」和馬は本間の言葉をそのまま渡した。「寒さにはめっぽう強い。だが夏の暑さで乳が止まり、子が育たず、ひどい年には死ぬ。――万能の、山あいに熱と湿気がこもるあの夏を、北の羊は越せない」
加藤の顔が曇った。夏。山あいのこの街に、熱と湿気のこもる季節。想像しただけで、答えのない問いだと、誰にでもわかった。
「じゃあ……羊は、諦めるしか」
「まだ、わからない」和馬は自分に言い聞かせるように言った。だがその先の言葉は続かなかった。北の男は「日陰さえ作れれば」と言った。その日陰を、この蒸す山あいの街で、どう作るのか――そこが、まるで見えない。
落胆した加藤を背に、和馬は境内をあとにした。腕の時計が、昼休みの終わりを指している。役所へ戻ればまた蛍光灯の下で、判子を押す午後が待っていた。羊も、土地もある。だがこの街の夏が、それを阻む。――そして羊の夢を阻む壁は、暑さだけではなかった。もうひとつの壁が牙を剥いたのは、その夜だった。
その夜。純喫茶へ戻ると、原沢が難しい顔で、卓に議案書を広げて待っていた。加藤も、呼ばれて隣に座っている。
「和馬さん。あんたが昼に伏せてったあの写し」原沢が一枚の紙を差し出した。声が低い。「あれから、まる一日、条文を追った。――思ったより、根が深い」
和馬は椅子を引いた。役所の机では下っ端の顔で見送った条例が、今、酒場の卓の上で、正体を現そうとしていた。
「議会が、条例改正を動議に上げた。『生活環境の保全』の名目で、市街化調整区域での家畜の飼養に、厳しい網をかける」
「うちの畑は」加藤の声が掠れた。
「まるごと、網の中だ」原沢は頷いた。「新しく家畜を飼うなら、届出、施設基準、周辺同意――関所をいくつも通らされる。実質、始めるな、という条例だ」
「なぜ、今」和馬は紙を睨んだ。ほんとうは、もう半分、答えを知っていた。前から、温めてたような話。桑原の、気のない声が耳の奥で鳴った。
「ここを見てくれ」原沢の指が、条文の隅を叩いた。「附則。既存の事業者は、適用除外。――川上に連なる古い畜産――喜多村のとこだけが、網の外に残る。新しく始める者だけを縛って、身内は守る条例だ」
和馬は奥歯を噛んだ。
役所の回覧に一枚の説明もなく流れてきた理由が、これで腑に落ちた。説明などいらない。説明のいらないところで、話は、とうに決まっていたのだ。川上の手。役所と議会という堰。上から水を流し、下から芽吹く芽を踏みつぶす、水路の番人。羊が来るより先に、道が塞がれていた。
「地域経済牽引事業計画も、動かん」原沢が続けた。「入口を、市議会が握ったままだ。川上の閂は、かかったきりだ。設計図が固まらんうちは、県も、うかつには動けん」
暑さも、条例も、正面からは崩せなかった。ひとつずつは正しいのに、噛み合うと、どこにも進めない。船底の浸水。純喫茶の卓の下で、和馬はこぶしを握りしめた。追い詰められている。北の果てで羊を撫でていたあいだにも、堰は静かに、着々と高くなっていた。しかもその堰の一枚は、今朝、和馬自身の机の上を、素知らぬ顔で通り過ぎていったのだ。
同じころ。街を見下ろす高台の、川上建設の一室。
厚い絨毯に、革張りの椅子が沈んでいる。上座で、川上孝政が脚を組んでいた。七十を越えてなお、背筋は鉄骨のようにまっすぐだ。卓上には、一枚の写真が放り出されている。北の牧場。柵の中の羊。そのそばに立つ、若い男の横顔――和馬だった。
「余市で葡萄、知床で羊、ときたか」川上は写真を指先ではじいた。「大森の、逃げ帰りの小僧が、ずいぶん遠出をする」
向かいの椅子で、市議会の重鎮が身を縮めた。
「あの万能ファームとかいう素人の百姓ごっこが、県の計画に乗ろうとしております」議員は揉み手で言った。「葡萄に羊に……街をまるごと作り変える気かと」
「作り変える、な」川上は窓の外の街を見下ろした。祖父の代からこの街の土を掘り、道を通し、橋を架けてきた。川上の鉄はこの街の骨だ。「素人が思いつきで土台をいじれば、街は傾く。飯の食い上げになる者が、何百と出る。守ってやらにゃならん。この街の秩序をな」
彼の中で、それは悪ではなかった。守るための、正しい手だった。
「例の家畜の条例だ。早めに通しておけ」川上は静かに言った。「新参者が、勝手に始められんようにな。……ただし、喜多村んとこは除外だ。あそこには長年、世話になっとる」
「は、はい。附則に、そのように」
「それと」川上は写真の若い男の横顔をもう一度見た。「この小僧、地域振興課の下っ端だったな。役所の内に一匹、飼っておくのも悪くない。泳がせておけ。どこまで泳ぐか、見ものだ」
誰かを傷つけるつもりなど、露ほどもなかった。ただ堰はまた一段、高くなった。
和馬はたまらず純喫茶の外へ出た。凍えた夜気が、火照った頭を冷やしていく。山あいの闇は、深い。
「しけた面、してるな」
しわがれた声が、背後から降った。毛糸の帽子の老人が、いつのまにか、そこに立っている。小鹿野の爺だ。湯気の立つ甘酒の椀を、二つ提げていた。
「爺さん」
「羊は暑さに弱え。だから飼えねえ。――そう諦めるのかい」爺は椀の一つを、和馬に押しつけた。「知床の男は、なんて言った。よく思い出しな」
「……涼しい日陰さえ作れれば。夏も、越せる、と」
「だろうな」爺は闇に沈む西の峰を、顎でしゃくった。「そいつをこさえてる男がいる。畑の上に不思議なものを架けて、陽と農を分け合う男さ。日陰を、金に変える術を持ってる」
「どこに」
「西だ。空のいちばん近いとこ。日本でいっとう高え駅の、そばさ」爺の目が、細く光った。「暑い土地の答えは、暑い土地の奴に聞け――そう言われたんだろ。だがな、日陰の作り方はいっとう寒い土地の奴がいっとうよく知ってる。あべこべに見えてそれが近道さ」
和馬ははじめて、その土地の名を聞いた。
伝書鳩がまた行き先を指した。和馬の知らない場所へ、和馬を飛ばすために。この老人はいつも、答えそのものではなく、答えのある場所だけを指し示す。まるで、和馬自身に、掘り当てさせるように。
「条例は、どうします」和馬は訊いた。「羊の日陰を見つけても、道が塞がれたままなら」
「壁を、正面から殴るな」爺は甘酒をすすった。「殴れば、向こうも殴り返す。回り込め」
回り込め。――その一言が、和馬の胸の、思いがけないところに火を点けた。
条例が縛るのは、市街化調整区域での、家畜の飼養だ。市の条例が縛れるのは、市の土俵の中だけ。だが――と、和馬の頭のなかで、役所の机で幾度も繰ったあの分厚い法令集の背が、ひとりでに開いた。県を、国を通す事業計画には、市の条例の一枚上を行く、別の水路がある。地域の未来へ金と権限を通すための、国の法。あれは、市議会の閂の、外側を流れている。
それは、旅先の誰にも教われない知恵だった。冴えない下っ端として、県の通達と法令集のあいだで飼い殺されてきた、その日々だけが授けてくれる知恵だった。諦めた課の、諦めた机の上に、皮肉にも、堰の脇をすり抜ける一本の水路が、ずっと眠っていたのだ。
「爺さん」和馬は椀を握る手に力を込めた。「役所の内から見た景色がいまはじめて役に立ちそうだ」
「ほう」爺はめずらしく、目を細めて笑った。「川の中にいる魚にしか、水門の在処はわからねえ。おまえは、いい魚だよ」爺はまた西の峰を見た。「その高原の男が、条例の縛れねえ土地の使い方を、教えてくれる。――堰ってのはな、水路を変えちまえばただの置き物さ」
甘酒が、冷えた指に熱かった。和馬はそれを一息にあおった。喉の奥から、じんわりと熱が回る。
行き止まりだと思った壁の、その向こう側に、まだ見ぬ道が一本、細く光って見えた気がした。
純喫茶に戻った和馬は皆に、西の高原の話をした。すぐにでも発つつもりだった。だが皆の反応は、思いがけないものだった。
「今度は、あたしらも行くよ」
シスコが腕を組んで言った。まさひろも丸木も、原沢さえも頷いている。
「和馬さんは、いっつも一人で行って、一人で土産話を持って帰ってくる」まさひろがにやりとした。「こっちは留守番で、あんたの話を聞くだけだ。もう飽きた。今度は、この目で見せてもらう」
和馬は面食らった。
「だがすぐには無理だ」ゆきが帳簿を閉じた。「冬のあいだ、皆で街を空けられるか。紅金の畑の段取りも、条例への備えも、これからだ」
「それに、あたしんとこの下の子が、まだ手がかかる」シスコが苦笑した。「ママ友に預けるにも、段取りがいる。春になって、上の子が学校に上がって、下の子の預け先が固まりゃ、身軽になる。それまで、待ちな」
「春まで……」和馬は逸る声を漏らした。条例も、閂も、待ってはくれない。
「ちょうどいい」まさひろが腕を組んだ。「日本一高え駅のそばなんだろ。今ごろあの高原は雪の下だ。畑も、羊の草も、眠っちまってる。物を見るなら、生きて動いてる時に見なきゃな」
「それに――一人で見た絵より、皆で見た絵のほうが、遠くまで届く」ゆきが静かに言った。「あんたの土産話を、あたしらがまた留守番で聞くのは、これで終いだ」
和馬は逸る足を、地面に押しつけた。
その夜、アパートへの帰り道。胸ポケットの薄い電話が一度だけ震えた。機関からの短い文字。八ヶ岳の高原を指し示した爺の口ぶりとはまるで逆だった。人の温度などどこにもない。氷のように感情のない、いつもの声だ。
――時間は、そちらの味方ではない。堰は日ごとに高くなる。退くのなら、退いたぶんだけ鋭くなれ。
和馬は暗い画面をしばらく見つめた。急かすのでも、励ますのでもない。ただ事実だけを置いて消えていく声。だがその一行がかえって和馬の腹を据わらせた。爺の甘酒の熱と、機関の氷の声。同じ夜に届いた二つの合図は、手ざわりこそ逆なのに、指している先だけはぴたりと一つだった。急げ、と。
待つ。だがただ待つのではない。冬のあいだに、決まった紅金の畑を段取りし、ワインの木のオーナーを全国から募る。原沢は条例の作為を洗い、加藤は石灰の斜面に手を入れる。そして和馬は――昼は地域振興課の机で下っ端の顔を続けながら、その机の抽斗の奥で、条例の閂をすり抜ける、国の法の水路を、一枚ずつ静かに引いておく。役所の内にいる者にしか引けない、その水路を。
退いて、力を溜める。いっぺん折り返して、強くなる。――この街の流儀を、和馬はもう、体で覚えはじめていた。
窓の外を、粉雪が舞いはじめた。長い冬が来る。その果てに、春が待っている。
翌朝も、和馬はいつもの時刻に、庁舎の三階へ上がった。桑原課長が、缶コーヒー片手に「よう、旅人さん」と笑う。和馬は下っ端の顔で、判子を手に取った。誰も知らない。この諦めた課の、いちばん冴えない机がいまこの街をひっくり返す設計図の、隠し場所になりつつあることを。
(第12話 了)
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ノグチ カズヒコ/51歳/男
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