2024/2/29
地名としての「初鹿野」は、現在の山梨県甲州市大和町初鹿野に残り、この地名は『古事記』にまでさかのぼる。葦原中国を治めていたオオクニヌシの息子の一人で、現在は諏訪大社(長野県諏訪市ほか)に祀られているタケミナカタが、この地で巡狩したとき初めてシカを得たことにちなむと伝わっている。この地に今も残る初鹿野諏訪神社が持つ「諏訪」の文字は、初鹿野とタケミナカタの縁を示すものと考えられる。
西行(1118~1190)は、俗名を佐藤義清といい、平安末期から鎌倉初期にかけての武士であり、僧侶、歌人である。鳥羽上皇の北面の武士を勤めたあと、23歳で出家し、全国を放浪する。西行は2000を超える和歌を残したが、そのうちのひとつに「初鹿野」が見える。
甲斐が根の ふもとの原は みな暮れて 夕日残れる 初鹿野の山
この歌から、平安時代には「初鹿野」という地名がすでに定着していたことがうかがえる。
第56代清和天皇(在位858~876)の第六皇子貞純親王の男子、経基王が源経基として清和源氏初代となるが、甲斐武田氏はその子孫である。源経基の孫、源頼信は清和源氏三代目であり、河内源氏初代である。その孫、源頼光が甲斐源氏初代となり、清和天皇から数えて七代目で甲斐の地を踏むこととなった。
甲斐源氏四代目となる源頼光の曾孫が元服して、祖父、源義清のころから土着していた常陸国武田郷にちなんで武田信義と名乗り、戦国大名として有名な武田晴信(信玄)を出す甲斐武田家初代となる。ときは1140年であり、初鹿野を訪れた西行が出家したころである。
武田信義から数えて四代目、武田信時(1220~1289)の三男、武田時平が甲斐国都留群初鹿野郷を領したことから、初鹿野時平と名乗り、ここに初鹿野家が誕生する。初鹿野家は、こののち武田家家臣として、1582年の武田家滅亡まで約300年にわたり、足軽大将や侍大将などを歴任し、代々武田家を支えていくことになる。
戦国時代のもっとも有名な戦のひとつである長篠の合戦(1575)時の武田家当主は武田信玄の子、武田勝頼であり、ときの初鹿野家当主は初鹿野信昌(1544?~1624)であった。先代の初鹿野忠次が1561年に第四次川中島の合戦で跡取りを残さず戦死したため、同じく武田家臣団の加藤虎景の六男であった信昌が初鹿野家の名跡を継いだものである。
『長篠合戦図屏風』(大阪城天守閣蔵)中の武田勝頼のそばには初鹿野信昌が描かれている。
1582年、武田勝頼が織田信長に攻められて自害し武田家が滅亡すると、戦国一との誉れ高かった武田家家臣団の多くは、徳川家康に召し抱えられることとなった。初鹿野信昌もその一人で、小牧・長久手の戦い(1584)、小田原征伐(1590)、関ヶ原の戦い(1600)、大坂の陣(1614~15)に従軍する。
江戸幕府の成立後、初鹿野家は徳川家の旗本となった。幕府在任中は日光奉行、浦賀奉行、遠国奉行、大目付、江戸城留守居などの要職を勤めた。明治維新により初鹿野家の屋敷などは明治新政府に没収され、武士としての初鹿野家は終わりを迎えた。
知行地は武蔵国足立郡大宮領に属する土呂村であり、現在の初鹿野家の墓もさいたま市見沼区片柳にある。
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