2026/4/23
「日本のシンドラー」と称される、陸軍中将・樋口季一郎氏。
一つ前の投稿で杉原千畝氏をご紹介したので、樋口季一郎氏についてもお伝えしたいと思います。
1938年3月。まだ厳しい冬の寒さが残る満州国とソ連の国境にある駅オトポールに、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人難民が多数押し寄せました。 気温は氷点下20度前後。十分な食料も防寒具もなく、多くの人々が凍死の危機に瀕していました。
当時、日本はすでにドイツと防共協定を結んでおり、同盟国であるナチスの政策に表立って反発することは極めて困難な政治状況でした。満州国外交部もドイツへの配慮から難民の入国を拒否していました。
この絶望的な状況のなか、人命救助のために立ち上がった日本人がいます。当時のハルピン特務機関長、陸軍少将(後に中将)の樋口季一郎です。
実はその前年12月、第1回極東ユダヤ人大会がハルピンで開催された際、樋口少将は来賓として招かれ、ユダヤ民族に対する理解と同情を込めた祝辞を述べていました。
「20世紀の今日、ユダヤに対する追放を見ることは、人道主義の名において、また人類の一人として、私は心から悲しまずにはおられない……ユダヤ人を追放する前に、彼らに土地を与えよ!安住の地を与えよ!」という力強い言葉に、会場は大きな喝采に包まれたそうです。
樋口少将は惨状を見かねて、自らの決断を下します。南満洲鉄道に掛け合って特別列車を手配し、難民たちに食料と衣類、そして医療を提供して、彼らを安全な地へと逃がしたのです。
これが後に「オトポール事件」と呼ばれる救出劇です。
当然ながら、ナチス・ドイツはこの行動に激怒し、日本政府に対して強硬な抗議を行いました。樋口少将は新京の軍司令部に出頭し、関東軍参謀長の東條英機に呼び出されます。
しかし樋口少将は一歩も引きませんでした。東條参謀長に対して、次のように伝えたと言われています。
「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることを正しいと思われますか」
人道上の正義を堂々と主張した結果、東條参謀長もこれを受け入れ、ドイツからの抗議を退けたそうです。東條参謀長も立役者の1人となりました。
杉原千畝氏は外務省の命令に背いて個人の良心を貫き、命のビザを発給しました。
一方の樋口少将は、強大な同盟国からの圧力に屈せず、軍の中で説得を続け、人命を守り抜きました。
方法は違えど、お二人(杉原千畝氏)に共通しているのは、目の前の命を救うという人間の良心を最優先にしたという揺るぎない精神です。
この精神は、1919年のパリ講和会議で日本が世界に先駆けて国際会議の場で人種差別撤廃を正式に訴えた歴史とも深く通じてきます。
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