2026/4/18
「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れようとしたユダヤ人難民にビザを発給し続けた日本の外交官・杉原千畝は、その決断の理由をこう語りました。
先日の4月13日はヨム・ハショア、イスラエルのホロコーストメモリアルデーでした。この日、杉原千畝の名が改めて世界に発信されました。
私が心から尊敬する人物です。
杉原千畝は、1900年(明治33年)、岐阜県に生まれました。早稲田大学に入学しましたが、外務省の留学生試験に合格したことを機に中退。官費留学生としてハルピンに渡り、語学だけでなく情報収集においても卓越した才能を発揮しました。
1939年、ヨーロッパ情勢が緊迫するなか、杉原はリトアニアの首都カウナスに領事代理として赴任しました。
1940年の夏、カウナスの日本領事館の前に、ナチス・ドイツの迫害から逃れようとしたユダヤ人難民たちが押し寄せました。
彼らが求めたのは、日本を経由して安全な国へ渡るための通過ビザ一枚。それだけが、生き延びる唯一の道でした。
しかし外務省本省からの命令は、「行き先国の入国許可と十分な旅費を持たない者にはビザを発給してはならない」。杉原は本省に三度、発給の許可を求めました。三度とも、拒否されました。
「外務省の命令に背くか、それとも目の前の人々を見捨てるか」
杉原は、悩み抜いた末に決断しました。外交官としてのキャリアを、自身と家族の安全を、すべて賭けて、人道を選んだのです。その決断を傍らで支えたのが、妻・幸子でした。
杉原が「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」と尋ねたとき、幸子は即座にこう答えました。
「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください。」その一言が、杉原の決意をより固いものにしました。
それから二人は夜通し作業を続けました。杉原が右腕の感覚を失いながら命のビザを書き、幸子は領事印を押し続けました。領事館を離れなければならなくなった後も、ホテルの窓から、走り出した列車の窓から、杉原はビザを書き続けました。
発給したビザは2,000通を超え、救われた命はおよそ6,000人。現在、その子孫は4万人以上にのぼると言われています。
帰国後、杉原は1947年に外務省から退職を求められます。表向きは人員整理とされましたが、本省の命令に背いたことが実質的な理由だったと言われています。さらに外務省内では根拠のない誹謗中傷が流されたと伝えられています。
杉原はその後、商社に勤め、自身の功績を語ることもなく静かに暮らしました。
しかし、かつて命のビザで救われたユダヤ人たちは杉原を忘れていませんでした。彼らは長年にわたって所在を探し続け、ついに杉原を見つけ出します。
集められた多数の証言が、埋もれていた杉原の功績を世界に知らしめました。
1985年、イスラエル政府が杉原を「諸国民の中の正義の人」として表彰しました。
しかし翌1986年、杉原はその生涯を閉じました。
そして逝去から14年後の2000年10月10日、外務省は外交史料館で杉原千畝氏顕彰プレート除幕式を開催し、当時の河野洋平外務大臣が戦後の外務省の非礼を認め、正式に遺族に謝罪しました。ようやくその功績が母国日本で公式に認められたのです。
人としての良心に従い、信念を貫いた 杉原千畝。私もまた、自らの信じる正義に従って歩み続けたい。
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