2026/5/6
今年、2026年のゴールデンウィークには、少し珍しい休日があります。
5月3日の憲法記念日が日曜日に当たったため、5月4日のみどりの日、5月5日のこどもの日を越えて、5月6日が休日となりました。
いわゆる振替休日です。
祝日法では、国民の祝日が日曜日に当たった場合、その後の最も近い「国民の祝日でない日」が休日になります。
そのため、今年は憲法記念日の振替休日が、5月6日まで押し出された形になりました。
しかし、ここで少し立ち止まって考えたいのです。
祝日が日曜日に当たれば、振替休日が発生します。
ところが、祝日が土曜日に当たっても、振替休日は発生しません。
土日休みの週休二日制が広がった現代社会では、これは少し不自然です。
多くの会社員にとって、土曜日に祝日が重なれば、休日が一日消えたような感覚になります。
日曜日に祝日が重なった場合だけ救済される。
土曜日に祝日が重なっても救済されない。
この小さな違和感から、日本の祝日制度そのものを考えることができます。
そもそも、国がここまで細かく「国民の休む日」を決める必要があるのでしょうか。
国民の祝日は、単なる休日ではありません。
祝日法では、国民の祝日を「国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日」としています。
つまり祝日とは、本来、国民がその意味を共有し、立ち止まり、祝い、感謝し、記念する日です。
ところが現代日本では、祝日がだんだん「国が配る休日カレンダー」のようになっています。
海の日。
山の日。
スポーツの日。
みどりの日。
一つ一つに趣旨はあります。
しかし、全国民が本当にその日に海を思い、山に感謝し、スポーツについて考えているでしょうか。
祝日があること自体が悪いのではありません。
問題は、国が全国一律の祝日を節操なく増やすことで、かえって「祝う気持ち」の価値を薄めているのではないか、ということです。
日本の祝日は、もともともっと重い意味を持っていました。
春分の日、秋分の日、勤労感謝の日、文化の日などには、戦前の祭日、皇室祭祀、明治節、新嘗祭などの歴史的背景があります。
戦後、日本国憲法のもとで、政教分離や国民主権との整合性を取るため、名前や趣旨を変えながら残された祝日もあります。
つまり、日本の祝日は単なる休みの日ではありません。
皇室祭祀。
農耕文化。
戦後憲法。
国家の記憶。
観光政策。
連休政策。
こうしたものが幾重にも重なった、非常に複雑な制度です。
だからこそ、軽々しく増やしてよいものではないはずです。
本来、日本にも地域に根ざした休みがありました。
農村では、村祭りの日に農作業を休み、地域全体で神社に集まり、豊作を祈り、収穫に感謝してきました。
休みとは、単に働かない日ではありませんでした。
共同体が同じ時間を共有し、自分たちの土地の歴史、自然、神事、暮らしを確認する日だったのです。
今でも、その名残は各地にあります。
地域の祭りに合わせて、地元企業が独自に休みにする。
教育委員会や学校が、地域行事に配慮して休校や短縮授業にする。
地域の人たちが、その日を特別な日として扱う。
これは、法律上の国民の祝日ではなくても、地域に根ざした「本物の祝日感」が残っている証拠です。
海外では、全国共通の祝日だけでなく、州や自治州、地域ごとの祝日が珍しくありません。
その土地には、その土地の宗教があります。
その土地には、その土地の歴史があります。
その土地には、その土地の祭りがあります。
その土地には、その土地の慰霊、農業、漁業、産業、文化があります。
だから、地域ごとに休む日が違う。
これは、とても自然なことです。
海外で多くの地方祝日を見てきたからこそ、日本の祝日制度の不自然さは際立って見えます。
東京の中央政府が、全国一律に「この日に休みなさい」と決める。
そして、その祝日が全国にそのまま適用される。
北海道にも、沖縄にも、京都にも、千葉にも、市川にも、同じカレンダーが配られる。
しかし、本当にそれでよいのでしょうか。
地域には、地域の記憶があります。
千葉県にも「県民の日」があります。
学校は休みになることがあります。
公共施設の無料開放やイベントもあります。
しかし、休みになる民間企業は多くありません。
ここに、地域祝日の可能性と限界が同時に表れています。
千葉県民の日は、地域に根ざした日です。
しかし、会社が休みにならなければ、地域全体で祝う日にはなりません。
特に市川市の場合、さらに問題があります。
市川市民の中には、東京都内へ通勤している方も多くいます。
千葉県が県民の日を設けても、勤務先が東京都内であれば、会社は通常営業です。
すると、こうなります。
子どもは休み。
親は仕事。
家庭だけが困る。
これは、県単位の休日だけでは解決できない、現代社会の問題です。
昔の農村社会であれば、住む場所と働く場所はかなり重なっていました。
しかし今は違います。
市川市に住み、東京で働く。
千葉県に住み、都内の会社に通う。
子どもは地域の学校に通い、親は別の自治体で働く。
このように、住む場所と働く場所が一致しない社会では、地域祝日だけでは十分ではありません。
だから、最終的に必要なのは、国が祝日を増やすことでも、県が単独で休日を作ることだけでもありません。
本当に必要なのは、国民一人ひとりが、自分の生活、家族、地域行事、学校行事、介護、休養に合わせて、当たり前のように有給休暇を取れる社会です。
地域の祭りがあるなら休める。
子どもの学校が休みなら親も休める。
疲れているなら休める。
家族と過ごしたいなら休める。
そして、それを理由に不利益を受けない。
これこそ、本当の休み方改革ではないでしょうか。
日本では、労働者の声が弱くなりすぎています。
労働組合の力は弱まり、企業側の声は政治に届きやすい。
欧州のように、法律で労働者の休息や有給休暇を強く守るわけでもありません。
アメリカのように、高い報酬や労働条件を求めて、個人が強く交渉する文化も十分ではありません。
その結果、日本は非常に中途半端な社会になっています。
強い労働者保護もない。
高額報酬を求める交渉文化も弱い。
有給休暇も自由に取りにくい。
しかし、仕事には「やりがい」だけが求められる。
これは危険です。
典型例が、教員です。
「子どものため」
「教育のため」
「先生なのだから」
そうした言葉で、長時間労働が当然のように扱われてきました。
公立学校教員については、給特法により、教職調整額を支給する一方で、時間外勤務手当は原則として支給されない仕組みが取られてきました。
これは、まさに統治OSのバグです。
教育という大切な仕事を、制度としてきちんと支えるのではなく、現場の使命感と善意に依存してきた。
本来なら、人員を増やし、休息を保障し、時間外労働には正当な対価を払うべきです。
やりがいのある仕事だから、安く長く働かせてよいのではありません。
やりがいのある仕事だからこそ、正当な報酬と休息が必要なのです。
これは教員だけの問題ではありません。
保育。
介護。
医療。
福祉。
行政現場。
非正規公務員。
サービス業。
観光業。
物流。
小売。
飲食。
日本では、多くの大切な仕事ほど、「使命感」や「やりがい」に依存して制度の穴を埋めてきました。
これは美談ではありません。
制度の欠陥です。
労働時間の上限を緩めるなら、制度設計は二つのどちらかでなければなりません。
一つは、欧州型のように、労働時間、休息、有給休暇を厳しく守る社会です。
もう一つは、労働時間の自由度を認める代わりに、高額報酬や強い交渉力を保障する社会です。
そのどちらでもないまま、「自由な働き方」「裁量」「やりがい」という言葉だけで、低賃金の長時間労働を認める制度は、労働者保護ではありません。
それは、やりがい搾取を制度で追認するものです。
5月6日の振替休日は、ただのゴールデンウィークの延長ではありません。
それは、国が国民の休む日を細かく設計している日本の姿を、わかりやすく見せてくれる日です。
しかし、現代社会で本当に必要なのは、国が祝日を増やすことではありません。
地域が自分たちの暦を持つこと。
国民一人ひとりが、自分の生活に合わせて有給休暇を取れること。
働いた人には、正当な報酬と休息が保障されること。
この三つがそろって、初めて本当の意味で「休める社会」になります。
祝日の問題は、カレンダーの話に見えます。
しかし、その奥には、日本の労働、地方分権、教育、行政、そして統治構造の問題があります。
国が休む日を決める社会から、国民が休む日を選べる社会へ。
低賃金・長時間労働を「やりがい」で包む社会から、休息と報酬を正当に保障する社会へ。
祝日を増やす政治ではなく、有給休暇を当たり前に取れる社会をつくる政治へ。
休み方を見直すことは、日本の統治OSのバグを修正することでもあるのです。
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