2026/5/3
市川市は、昭和59年、1984年11月15日に「核兵器廃絶平和都市宣言」を行いました。
この宣言では、核兵器の廃絶、生命の尊厳、恒久平和の確立が訴えられています。
市川市にとって、平和は大切な理念です。
だからこそ、憲法9条や自衛隊の問題についても、単に「改憲反対」「9条を守れ」と唱えるだけで終わらせてはいけないと考えます。
平和を願うことは大切です。
しかし、平和は願うだけでは守れません。
現実に存在している自衛隊を、憲法上どう位置づけ、どう縛るのか。
ここを正面から考えることも、平和都市市川市に住む私たちに必要な議論ではないでしょうか。
憲法記念日に向けて、私はnoteで詳しく記事を書きました。
憲法改正問題と「9条を守れ」論の限界
https://note.com/takasan_japan/n/n2b5933df871c?sub_rt=share_sb
この記事で書いた中心テーマは、次の一点です。
憲法とは、国家権力を縛るためのものです。
であるならば、現実に存在する自衛隊という実力組織を、いつまでも政府解釈の上に置き続けてよいのか。
市川市が平和都市であるからこそ、この問題を避けてはいけないと思います。
また、昨日の選挙ドットコムブログでは、「憲法は国を縛るための道具です」を書きました。
https://go2senkyo.com/seijika/186483/posts/1368849
よく言われる主張があります。
「9条があったから日本は平和だった」
「9条が戦争への防波堤になった」
「だから9条を変えてはいけない」
一見すると、平和を大切にする主張に聞こえます。
しかし、そこから直ちに「自衛隊を憲法に明記してはならない」という結論にはなりません。
なぜなら、9条改憲とは、9条を全部削除する話だけではないからです。
戦争放棄の理念を残す。
平和主義の趣旨を残す。
そのうえで、自衛隊の目的、権限、限界を憲法に明記する。
こうした改憲も当然に考えられます。
むしろ、平和を本当に守りたいなら、自衛隊を政府解釈の中に置き続けるのではなく、憲法と法律で明確に縛るべきではないでしょうか。
ここで大事なのは、私は単純に「自衛隊を憲法に書けばよい」と言っているのではないという点です。
むしろ逆です。
9条に自衛隊だけを明記し、その限界を書かないのであれば、それは非常に危険です。
なぜなら、自衛隊という国家の実力組織に、憲法上の正当性だけを与えながら、その権限や限界を曖昧にしたままにすることになるからです。
「自衛隊は憲法に書かれた」
「だから自衛隊の活動は憲法上認められている」
「では、どこまでできるのかは政府が判断する」
こうなれば、むしろ自衛隊の暴走を許す危険があります。
平和を守る改憲とは、自衛隊に白紙委任を与えることではありません。
自衛隊を憲法に書くなら、同時に限界も書く。
ここが絶対に必要です。
日本には自衛隊があります。
災害派遣でも、国土防衛でも、国民の生命と安全を守る重要な組織です。
多くの国民も、自衛隊の存在そのものを否定していません。
しかし、その自衛隊は、憲法の条文上、正面から明記されていません。
その結果、日本は長年、政府解釈によって自衛隊を合憲と説明してきました。
国家の実力組織を、憲法ではなく政府解釈で動かし続ける。
これは、法治国家として非常に危うい状態です。
国家権力を縛るためには、条文が必要です。
法律が必要です。
手続が必要です。
国会による統制が必要です。
国民による監視が必要です。
「9条があるから大丈夫」という言葉だけでは足りません。
改憲に反対する人たちは、よく政府の暴走を警戒します。
自衛隊が無制限に動くことを警戒する。
海外派兵を警戒する。
国民の権利制限を警戒する。
行政権の拡大を警戒する。
そこまでは分かります。
しかし、それならば本来、こう言うべきではないでしょうか。
自衛隊を憲法に書くなら、限界も書け。
国会統制を明記せよ。
文民統制を明記せよ。
海外での武力行使の限界を明記せよ。
安全保障を理由に国民の自由を不当に制限できないと明記せよ。
これなら筋が通ります。
ところが、実際には「自衛隊を憲法に書くこと自体が危険だ」という話になりがちです。
現実に自衛隊は存在しています。
現実に政府解釈で動いています。
現実に安全保障政策は広がっています。
それなのに、憲法には書かない。
限界も明記しない。
政府解釈に置き続ける。
これで本当に平和を守れるのでしょうか。
むしろ、政府解釈に任せ続ける方が危ういのではないでしょうか。
平和のための9条改憲とは、国に好き勝手をさせる改憲ではありません。
むしろ、国に好き勝手をさせないための改憲です。
自衛隊の存在を明記する。
同時に、自衛隊の目的を限定する。
自衛隊の権限を限定する。
海外での武力行使に厳格な制約を置く。
国会の関与を明記する。
文民統制を明記する。
安全保障を理由に、国民の自由や権利を不当に制限できないことを明記する。
これが本来の議論です。
つまり、必要なのは、9条を壊す改憲ではありません。
9条を補強する改憲です。
そして、自衛隊を明記するなら、必ず限界も明記する。
「自衛隊を憲法に書いたから大丈夫」ではありません。
「自衛隊を憲法に書き、その限界まで明確に書いたからこそ、国家権力を縛れる」
ここまで踏み込まなければ、平和のための憲法改正とは言えません。
憲法を「国家権力を縛るための道具」として考えるのではなく、「一文字も変えてはならない神聖な法典」のように扱うなら、それは本当に国民主権の憲法観なのでしょうか。
明治時代、大日本帝国憲法は天皇から与えられた欽定憲法でした。
国民が主権者として作り、必要に応じて直すという発想とは異なります。
ところが、現行憲法を「ありがたいもの」として一切変えようとしない態度は、形を変えた“欽定憲法的な憲法観”に近づいてしまいます。
国民主権の憲法であるならば、主権者である国民が、時代に合わせて国家権力をどう縛るかを議論し、必要なら条文を整える。
それこそが本来の憲法の使い方ではないでしょうか。
憲法を変えられない国は、憲法を守っている国ではありません。
憲法を使いこなせていない国です。
憲法や自衛隊の話は、国政の大きなテーマに見えるかもしれません。
しかし、市川市民にとっても決して他人事ではありません。
なぜなら、国家権力や行政権の裁量が広がる問題は、私たちの暮らしの中にも現れるからです。
行政は、しばしば「安全のため」「住民のため」「子どものため」という言葉で権限を広げます。
しかし、その権限が法律で十分に縛られていなければ、現場の判断や組織の都合によって、市民の自由や権利が傷つけられることがあります。
児童相談所の一時保護の問題も同じです。
「子どもの安全のため」という名目で、親子分離、面会制限、学校からの隔離、長期収容が行われる。
本来は厳格に縛られるべき行政権限が、現場判断と行政解釈によって広がっていく。
安全保障でも、児童福祉でも、地方行政でも、本質は同じです。
行政権の裁量は、法で縛らなければ広がる。
だからこそ、憲法が重要なのです。
市川市が平和都市であるならば、平和をただ願うだけでなく、平和を守る制度についても考えるべきです。
国民の命を守る自衛隊は必要です。
しかし、その自衛隊を無制限にしてはいけません。
だからこそ、憲法で縛る。
法律で縛る。
国会で縛る。
国民が監視する。
これが、平和を守るための現実的な議論です。
「9条があるから平和だった。だから変えるな」
この一言で、自衛隊の存在も、政府解釈の危うさも、行政権の裁量拡大も見ないことにする。
それは、本当に平和を守る態度なのでしょうか。
私は違うと思います。
9条を守るとは、条文を神棚に置いて唱えることではありません。
9条の平和主義を、現代の現実の中でどう機能させるのかを考えることです。
自衛隊をどう位置づけるのか。
どこまで認めるのか。
どこから先は禁止するのか。
誰が判断するのか。
国会はどう関与するのか。
国民の自由はどう守るのか。
これを憲法に書く。
それが、本来の立憲主義です。
憲法は、国家を飾る額縁ではありません。
国家を縛るためのものです。
平和都市市川市だからこそ、平和を願うだけでなく、平和を守るために国家権力をどう縛るのかを考える。
それが、いま必要な憲法論だと思います。
憲法記念日の今日、今一度、憲法について考えてみませんか。
本日のnoteブログにも『憲法記念日に考える 戦前日本を暴走させた「統治OSのバグ」』を掲載しました。
https://note.com/takasan_japan/n/n46271ed992d2?sub_rt=share_b
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