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【市川市の皆さまへ】憲法は国を縛るための道具です

2026/5/2

明日は、憲法記念日です。市川市の皆さまに、憲法について一度考えていただきたいことがあります。

憲法について、日本では大きな誤解があるのではないか。

最近、そう強く感じています。

多くの人は、憲法を「国民の権利や義務が書かれた、一番偉い法律」だと思っているかもしれません。

もちろん、憲法には国民の権利も書かれています。

しかし、憲法の本質は、国民を縛ることではありません。

国を縛ることです。

政府を縛ることです。

行政を縛ることです。

国が暴走しないように、主権者である国民が国家権力をコントロールするための道具。

それが、憲法です。

この出発点を間違えると、憲法論はおかしくなります。

「憲法を守れ」

「9条を守れ」

「権利を守れ」

こうした言葉は大切です。

しかし、その前に考えるべきことがあります。

憲法によって、国家権力を本当に縛れているのか。

政府や行政が、憲法の穴をすり抜けていないか。

主権者である国民が、憲法を使って国をコントロールできているのか。

ここを考えなければ、憲法は単なるお札のようなものになってしまいます。

憲法は「国民が守る一番偉いルール」ではない

日本では、憲法というと、どうしても「国民の権利や義務が書いてあるもの」という説明になりがちです。

学校でも、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、国民の三大義務といった形で教わった人が多いと思います。

もちろん、それ自体が間違いだとは言いません。

しかし、その教え方だけでは、憲法の一番大事な本質が見えにくくなります。

憲法は、国民に向かって「こうしなさい」と命令するための法律ではありません。

むしろ、国に対して、

「ここから先は国民の自由に踏み込むな」

「法律なしに権利を制限するな」

「行政の都合で人を拘束するな」

「政府解釈で権限を広げるな」

「国民を管理する側に回るな」

と命じるためのものです。

つまり憲法とは、国民を縛る鎖ではありません。

国家権力にかける鎖です。

この理解がないまま憲法を語ると、憲法が「ありがたい理念集」や「権利の印籠」のように見えてしまいます。

しかし、本来の憲法はもっと現実的な道具です。

強大な国家権力を暴走させないための、主権者の制御装置です。

欧米では、憲法は国家権力を縛るものとして理解されている

欧米の立憲主義では、憲法は国家権力を縛るためのものだという発想が基本にあります。

たとえばアメリカ合衆国憲法には、権利章典、いわゆるBill of Rightsがあります。

これは、国民が政府に対して持つ権利を明確にし、言論、報道、信教、適正手続などを政府が侵害できないようにするものです。

つまり、政府に対する国民側の防御壁です。

ドイツ基本法は、さらに明確です。

ドイツ基本法1条3項は、基本権が立法、行政、司法を直接拘束すると定めています。

これは非常に重要です。

人権は、単なる理念ではありません。

国会も、政府も、行政も、裁判所も、すべて基本権に縛られる。

これが、立憲主義の発想です。

憲法は、国民が国家に従うための法ではありません。

国家が国民に従うための法です。

ここを理解するだけで、憲法の見え方は大きく変わります。

憲法は変えてはいけない神聖な法典ではない

もう一つ、日本で弱いと感じるのは、憲法を「主権者が使う道具」として見る感覚です。

憲法を変えるというと、すぐに「危険だ」「戦争になる」「権力に利用される」という話になりがちです。

もちろん、警戒は必要です。

国家権力は、放っておけば権限を広げようとします。

政府や行政に都合のよい改憲には、強く警戒しなければなりません。

しかし、だからといって、憲法を一文字も変えてはいけないという話にはなりません。

欧米でも、憲法改正の手続は用意されています。

アメリカでは、連邦議会の上下両院の3分の2による発議、または州議会の3分の2の請求による憲法会議を経て改正案を出し、最終的には州の4分の3の承認が必要とされています。

ドイツでは、基本法の改正には連邦議会と連邦参議院のそれぞれ3分の2の賛成が必要です。ただし、人間の尊厳や民主主義、法治国家などの根本原理は改正できない仕組みもあります。

フランスでも、憲法改正には大統領側または国会議員による発議、両院での同一文面の可決、国民投票などの手続が用意されています。

イタリアでも、憲法改正には上下両院でそれぞれ2回の審議が必要で、一定の場合には国民投票も行われます。

つまり、欧米でも憲法改正は重い手続です。

しかし、「絶対に変えてはいけない神聖な紙」として扱っているわけではありません。

憲法は、国家権力を縛るための道具です。

ならば、時代の変化によって国家権力の姿が変われば、その縛り方も考え直す必要があります。

日本国憲法にも改正手続はある

日本国憲法にも、改正手続はあります。

日本国憲法96条は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で国会が発議し、国民に提案し、国民投票で過半数の賛成を得る必要があると定めています。

つまり、現行憲法自身が、憲法改正を予定しているのです。

にもかかわらず、日本では「憲法を変える」と言っただけで、非常に危険なことのように扱われることがあります。

しかし、本来問うべきなのは、憲法を変えるか変えないかだけではありません。

国家権力を強くするための改憲なのか。

国家権力をより明確に縛るための改憲なのか。

ここを分けて考えるべきです。

政府の権限を広げる改憲なら、警戒が必要です。

行政の裁量を広げる改憲なら、危険です。

国民の自由を制限しやすくする改憲なら、強く反対すべきです。

しかし、逆に、国家権力をより明確に縛る改憲もあり得ます。

政府解釈で広がってきた権限を条文で制限する。

行政裁量を厳格に縛る。

子どもの権利や適正手続を明確に保障する。

情報公開や行政記録の透明性を強める。

安全保障を理由に国民の自由を不当に制限できないようにする。

こうした方向の改憲は、むしろ立憲主義を強める可能性があります。

憲法を変えること自体が悪なのではありません。

国家権力を縛る力を弱める改憲が危険なのです。

「憲法を守れ」で止まってよいのか

政府や行政が憲法の趣旨に反するような行動をしたとき、日本ではよく「憲法を守れ」という話になります。

もちろん、それは当然です。

政府は憲法を守らなければなりません。

行政も憲法を守らなければなりません。

しかし、それだけで終わってよいのでしょうか。

もし政府や行政が憲法の穴をすり抜けているなら、本来はこう考えるべきです。

なぜ縛れていないのか。

条文が不十分なのではないか。

法律の仕組みが甘いのではないか。

行政への統制が弱すぎるのではないか。

裁判所のチェックが機能していないのではないか。

国会の監視が足りないのではないか。

主権者である国民が、ここまで考える必要があります。

憲法は、ただ守れと唱えるものではありません。

使うものです。

国家権力を点検するために使う。

政府解釈の危うさを問うために使う。

行政の裁量を縛るために使う。

そして、必要なら、国家権力をより明確に縛るために整える。

それが、本来の憲法の使い方ではないでしょうか。

欽定憲法的な感覚が残っていないか

明治時代の大日本帝国憲法は、天皇から与えられた欽定憲法でした。

その時代であれば、国民が憲法の条文を自分たちの手で変えるなど、恐れ多いという感覚もあったかもしれません。

しかし、現行憲法は国民主権の憲法です。

主権者は国民です。

であるならば、憲法を遠くからありがたがるだけではなく、主権者である国民が使いこなす必要があります。

憲法を「変えてはいけない神聖な法典」のように扱うだけなら、それは本当に国民主権の憲法観なのでしょうか。

むしろ、形を変えた欽定憲法的な感覚に近づいてしまうのではないでしょうか。

憲法を変えないことが、ただちに立憲主義なのではありません。

国家権力をどう縛るかを考え続けること。

その縛り方が不十分なら、主権者が議論し、必要に応じて整えること。

それこそが、国民主権の憲法観だと思います。

行政権は、縛らなければ広がる

これは、国政だけの話ではありません。

市川市民にとっても、決して他人事ではありません。

行政は、常にもっともらしい言葉で権限を広げます。

「安全のため」

「住民のため」

「子どものため」

「福祉のため」

「公共のため」

もちろん、本当に必要な行政権限もあります。

しかし、行政権限は、法律や手続で厳格に縛らなければ、いつの間にか広がっていきます。

そして、一度広がった行政権限は、なかなか元に戻りません。

児童相談所の一時保護の問題も同じです。

「子どもの安全のため」という名目で、親子分離、面会制限、学校からの隔離、長期収容が行われる。

本来であれば、極めて強い行政権限として、厳格な手続と透明性が求められるはずです。

しかし現実には、行政の判断、行政の記録、行政の解釈が大きな力を持ってしまう。

市民があとから争おうとしても、情報は行政側に偏り、時間もかかり、子どもや家庭に大きな負担が残る。

これは、憲法の問題と無関係ではありません。

行政権をどう縛るのか。

市民の自由や権利をどう守るのか。

手続をどう保障するのか。

この発想こそ、憲法の本質だからです。

市川市民にも必要な憲法感覚

市川市で暮らす私たちにとって、憲法は遠い国会議事堂の話ではありません。

市役所の窓口対応。

情報公開。

税金の使い方。

行政手続。

子どもの権利。

児童相談所の一時保護。

住民への説明責任。

これらすべてに共通するのは、行政権をどう縛るかという問題です。

行政は、市民よりも多くの情報を持っています。

行政は、記録を作る側です。

行政は、制度を運用する側です。

行政は、「市民のため」という言葉を使う側です。

だからこそ、市民の側には、行政を点検する力が必要です。

行政の説明をそのまま受け入れるのではなく、本当に法律に基づいているのか、本当に手続が守られているのか、本当に市民の権利が尊重されているのかを問う力が必要です。

その土台になるのが、憲法感覚です。

憲法を学ぶ意味は、試験のためだけではありません。

主権者として、国家や行政に向き合うためです。

憲法を「守る」だけでなく「使う」

私は、今の日本に必要なのは、単なる改憲論でも、単なる護憲論でもないと思います。

必要なのは、憲法を本来の意味で理解することです。

憲法は、国民を縛るものではありません。

国を縛るものです。

政府を縛るものです。

行政を縛るものです。

そして、その憲法を使う主体は、主権者である国民です。

憲法をありがたがるだけでは、国家権力は縛れません。

憲法を唱えるだけでは、行政権の暴走は止まりません。

憲法を使い、必要なら直し、国家権力をより明確に縛る。

その発想を持てるかどうかが、日本の民主主義にとって極めて重要です。

憲法は、国家を飾る額縁ではありません。

国家を縛るための道具です。

市川市民の皆さんにも、ぜひ考えていただきたいと思います。

憲法とは何か。

それは、国民が国家に従うための法ではありません。

国家が国民に従うための法です。

そして、その国家をコントロールする主権者は、私たち国民なのです。

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著者

たか さん

たか さん

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肩書 令和6年行政書士試験合格者、千葉県登録養育里親、メンタル心理カウンセラー、宅地建物取引士、賃貸不動産経営管理士、2級ファイナンシャル・プランニング技能士、千葉県市川市中央倫理法人会幹事
党派・会派 無所属
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