2026/9/12
越谷市役所の住所を見ると、「越谷市越ヶ谷四丁目2番1号」と書かれています。「越谷」の中に、同じ読み方の「越ヶ谷」がもう一度現れます。誤記でも表記の揺れでもありません。「越谷市」は市全体の名称、「越ヶ谷」は合併前から続く地域名です。
「こしがや」という地名は、市が誕生するよりはるかに古く、市の年表には11世紀の人物として「古志賀谷二郎為基」が登場します。1562年の文書には「越谷」、江戸時代には「越ヶ谷」、さらに「腰ヶ谷」と書かれた例もあります。先に「こしがや」という呼び名があり、漢字の表し方は時代によって一定ではなかったことが分かります。越谷市「越谷の歴史 年表」
市の説明では、「コシ」は山や丘の麓を示す「腰」、「ヤ」は湿地などの低い土地を意味し、大宮台地の麓に広がる低地を表したとされています。ただし、地名の語源は確定した事実というより、一つの説として見るのが適切です。
江戸時代より前の「越ヶ谷郷」は、現在の越ヶ谷地区だけでなく、出羽、荻島、瓦曽根、花田や現在のさいたま市岩槻区釣上まで含む広い地域でした。その中心に越ヶ谷町が形成され、日光街道の宿場としては、元荒川の北側にある大沢町と交通機能を一体化して「越ヶ谷宿」と呼ばれました。古い「越ヶ谷」も、郷、町、宿で指す範囲が異なります。越谷市「越ヶ谷地区」
現在の表記を分けた大きな節目は1954年です。越ヶ谷町、大沢町と周辺8村が合併し、面積58.44平方キロメートル、人口4万2,244人の「越谷町」が発足しました。市史によると、周辺町村でも地域一帯を対外的に「越ヶ谷」と呼ぶことが多く、別の新町名より「越谷」が適当だという意見が圧倒的でした。「熊谷」を「熊ヶ谷」と書かなくても「くまがや」と読む例もあるため、「越谷」も不当ではない、と説明されています。1958年の市制施行で「越谷市」になりました。越谷市史「越谷町の合併申請」
したがって、「旧越ヶ谷町と新しい越谷町を区別するため」と説明すれば結果としては分かりやすいものの、それだけが命名理由だったと言い切るのは正確ではありません。現在も古い中心地域の町名には「越ヶ谷」が残り、合併後に整えられた越谷駅、北越谷、南越谷などの表記には「ヶ」が入りません。通称では「越谷高校」と呼ばれる学校も、正式名称は現在も「埼玉県立越ヶ谷高等学校」です。埼玉県教育委員会「公立高校のホームページ」
「越谷市越ヶ谷」という住所は、新旧の地名が重なったものです。一文字の「ヶ」を見るだけで、千年近い地名、江戸時代の宿場、昭和の町村合併という三つの歴史をたどることができます。
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ホーム>政党・政治家>山田 信一 (ヤマダ シンイチ)>【越谷の歴史】 「越谷市」と「越ヶ谷」は何が違うのか