2026/8/19
阿波踊りの起源として最も有名なのが、徳島城の築城起源説です。天正15年、1587年に蜂須賀家政が徳島城を完成させ、その祝賀行事で城下の人々が踊ったことが始まりとされています。酒が振る舞われ、町民が無礼講で踊り明かしたという説明も広く流布していますが、徳島県の公式解説はそこまでを確定した史実とはせず、あくまで三つある起源説の一つとして紹介しています。
二つ目は風流踊り起源説です。寛文3年、1663年に成立した軍記物『三好記』には、徳島城完成より前の天正6年、1578年、十河存保が勝瑞城で風流踊りを催したとの記述があります。風流踊りは、華やかな衣装を身に着け、鉦、太鼓、笛などに合わせて集団で踊る中世芸能です。後の阿波踊りで、町や集団ごとに趣向を凝らす「組踊り」との共通性があるため、原型の一つと考えられています。ただし『三好記』自体は出来事から85年後に成立した史料であり、記述された風流踊りがそのまま現在の阿波踊りへ直結したとまでは断定できません。
三つ目は盆踊り起源説です。旧暦7月に行われていた盆踊りが、即興の寸劇や芸を披露する「俄」、集団ごとに構成を見せる「組踊り」、鳴り物に合わせて町を進む「ぞめき」などを取り込み、現在の形へ発展したとする見方です。
この三説は、どれか一つだけを選ばなければならない関係ではありません。盆に死者を送り迎えする踊りが基礎にあり、そこへ風流踊りの集団性や華やかさが加わり、徳島城下の成立と発展によって大勢が参加する都市の行事になった可能性があります。「最初に踊った日」を探すより、異なる要素がいつ、どのように結び付いたかを見る方が、阿波踊りの成立を理解しやすくなります。
徳島市立徳島城博物館も、阿波踊りを「徳島城下の年中行事として踊り継がれてきた盆踊り」が、時代とともに変化し、世界に知られる芸能文化へ発展したものと説明しています。ここでも、特定の一日だけでなく、城下の年中行事として続いた過程が重視されています。
徳島県立博物館は、さらに古い源流として、各村落で行われていた死者の鎮魂・鎮送の踊りを挙げています。盆踊りの原形の一つとされるのが、念仏を唱えながら踊って死者の霊を慰める「踊り念仏」です。平安時代末期の空也や鎌倉時代の一遍に結び付けられる習俗が各地で風流化し、多様な盆踊りへ変化しました。
こうして見ると、阿波踊りは一人の藩主が一夜で生み出した完成品ではありません。死者を送る村落の踊り、盆の娯楽、中世の風流踊り、徳島城下の都市文化が長期間にわたって重なったものです。
築城起源説を否定する必要はありません。蜂須賀家政と徳島城を結び付ける話は、阿波踊りの歴史を象徴的に伝える役割を果たしてきました。しかし、親しみやすい起源伝承と、史料から確認できる形成過程は分けて説明する必要があります。
現在見られる、連ごとにそろえた衣装、男踊りと女踊りの違い、大人数の構成、観覧席を備えた演舞場も、長い歴史の途中で整えられたものです。阿波踊りの本当の面白さは、一つの発祥伝説だけでなく、供養、娯楽、都市文化、観光という異なる役割を重ねてきた点にあります。
確認資料:徳島県「阿波おどり」、徳島県立博物館の解説
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