2026/8/24
明治維新は、身分制や幕藩体制を解体し、近代国家をつくった改革として語られる。しかし越谷の地域史から見ると、近代化にはもう一つの側面がある。国や県が、町村役場、学校、警察、農業団体などを通じて、一人ひとりの住民を直接把握するようになったことである。
維新後、越谷周辺は小菅県、大宮県、浦和県などを経て埼玉県へ編入された。宿駅制度が廃止され、江戸時代の越ヶ谷宿は公的交通機関としての役割を失った。一方で、区戸長制、戸籍、地租改正、町村会、学校、徴兵、郵便、警察など、新しい制度が相次いで導入された。
地租改正では、収穫物で納める年貢から、土地価格を基礎に現金で納める税へ変わった。土地所有権が明確になった反面、不作でも現金納付が必要になる。農家は農産物を市場で売って納税資金を得なければならず、借金や土地売却によって地主と小作への分化が進んだ。
学校教育も、知識を広げる重要な改革だったが、校舎、教員給与、教材などの費用は地域負担に依存した。道路、衛生、消防など新しい行政需要も増えたため、旧来の村入用がなくなって住民負担が軽くなったわけではない。負担の名称と徴収方法が近代化したのである。
東武鉄道の開通、銀行や産業組合の設立、農会・農事講習会による品種・技術の普及は、越谷を東京市場と強く結びつけた。米、もち米、野菜、桃などの商品化が進む一方、金融不安、小作問題、町村税の滞納も起きた。近代化は成長と格差を同時に生んだ。
大正3年には、越ヶ谷町が町税徴収方針をめぐる郡役所の措置を不服として訴願し、内務大臣へ再訴願した。町民同志会は郡長弾劾を決議している。近代地方自治は、国や県から制度を与えられただけではない。町が上級行政機関の判断を争い、住民が政治団体をつくる過程でもあった。
一方、地方改良運動、民力涵養運動、生活改善運動では、勤労、貯蓄、納税、衛生、冠婚葬祭の簡素化などが奨励された。合理化や衛生改善という利点はあるが、行政が家庭生活や価値観へ介入する仕組みにもなった。
この仕組みは戦時期にさらに強化される。国民精神総動員、大政翼賛会、部落常会、国防婦人会、翼賛壮年団、国民義勇隊が組織され、配給、供出、金属回収、勤労動員、思想統制が各世帯まで及んだ。学校は国民学校となり、学童疎開や学校工場が実施された。荻島飛行場も建設され、越谷は軍事動員の現場となった。
ここで地域組織は、住民の自発的な助け合いだけではなく、国策を末端で実行する機構として使われた。行政が直接すべての家庭を管理できないため、町村や地域団体を経由したのである。
近代化によって住民の自由が一方向に拡大したと見るのも正確ではない。江戸時代の身分的制約は解体されたが、戸籍、徴兵、学校、納税、警察によって、国家が個人を把握する力は強まった。住民は選挙や訴願という新しい政治手段を得る一方、行政からより細かく管理されるようになったのである。
行政が「改善」「協力」「地域のため」と説明する事業でも、目的、根拠、費用、参加の任意性を確認する必要がある。制度の名称や目的が立派でも、それだけで評価はできない。実際に誰が決定し、費用を誰が払い、参加を拒めたのか、成果は数字で確認できるのかを見る。越谷の近代史は、行政サービスの拡大と住民統制が同じ制度を通じて進み得ることを示している。
この記事をシェアする
ホーム>政党・政治家>山田 信一 (ヤマダ シンイチ)>【越谷の歴史】 近代化は自由化だけではなかった 行政が暮らしへ入った明治から戦時