2026/9/16
あ報道機関('◇')ゞ

映画『偏向報道』が、静かなロングランヒットとなっている。大規模な宣伝や潤沢な制作費に支えられた作品ではない。それでも東京・池袋シネマ・ロサでは6月19日の公開から8月27日まで約70日間上映され、横浜のシネマ・ジャック&ベティでも約2カ月に及ぶ上映が組まれた。さらに大阪、兵庫、福岡、愛知、岡山、広島などへ広がり、今後も宮崎、山口、香川、静岡で公開が予定されている。この息の長い広がりは作品が投げかけた問題に観客が強く反応した結果だ。
物語の舞台は地方テレビ局である。真偽不明の知事のパワハラ情報を端緒として、取材対象者の証言が誘導され、都合の悪い発言は切り落とされ、編集によってあらかじめ定められた筋書きが「事実」であるかのように組み立てられていく。下請け制作会社出身のフリーディレクター油神鈴子はその映像の放送を止めようと局内の権力構造に立ち向かう。本作の優れた点、偏向を単なる虚偽報道として描かなかったことだ。報道は露骨な嘘をつかなくても、質問の仕方、映像の順序、字幕、モザイク、発言の切り取りによって印象を変えられる。何を報じ、何を報じないかという「選択」そのものが世論を動かし得るのである。映画はその過程を具体的に可視化し、視聴者に「自分が見ているニュースは誰の判断によって構成されたものか」と問いかける。本作は特定の現実の事件について最終的な事実認定を下す報告書ではなく、社会派の劇映画である。だからこそ、観客は作品の主張を無条件に信じるのではなく、報道側の説明も含めて複数の情報を照合する必要がある。しかし、報道機関が権力を監視する存在であるなら、その報道機関自身もまた市民の検証を受けなければならない。本作の社会的意義はテレビを敵視することではなく、「報道を疑うことも民主主義の一部だ」と気づかせた点にある。
荻野欣士郎監督の視点も素晴らしい。自身の経験から巨大な陰謀ではなく上層部への忖度、下請けへの圧力、組織内で異論を口にしにくい空気に焦点を当てた。偏向報道は誰か一人の悪意だけで生まれるとは限らない。組織の論理に従い、疑問をのみ込み、「今までそうしてきた」と作業を続けるうちに製造される。その構造を娯楽作品として分かりやすく描いた着眼は鋭い。主演の鳥居みゆきは既成の枠に収まらない本人の個性を生かし、孤立しても信念を曲げない油神鈴子に強い説得力を与えた。険しさの中にユーモアと人間的な弱さをにじませ、物語を単純な勧善懲悪に終わらせていない。報道局長を演じる誠直也は長年培った重厚な存在感によって、声を荒らげるだけではない組織権力の威圧感を表現した。東さや香は良心と組織人としての立場の間で揺れる人物を繊細に演じ、大迫一平は現場を支配する同調圧力の不気味さを体現する。時東ぁみは無理な指示に従わされる制作者を通じて偏向の責任が弱い立場のスタッフへ押しつけられる現実を印象づけた。さらに、小野進也、螢雪次朗、郷田ほづみら経験豊かな俳優陣が脇を固め、作品世界に厚みを加えている。岬千泰、中島健太、大内智裕、中冨杏子、三枝りな、新井花菜、中野祥らも、それぞれ異なる立場から報道組織の群像を形づくった。中島卓偉によるテーマ曲「最後の一人になっても」も孤立を恐れず声を上げる主人公の精神と響き合う。『偏向報道』のロングランはテレビ報道に対する不信だけを示すものではなく信頼できる報道を求める市民の切実な願いの表れでもある。報道機関にはこの映画を不快な批判として遠ざけるのではなく自らの取材、編集、検証過程を省みる契機としてほしい。小さな一本の映画が大きなメディアに説明責任を迫る。その光景自体が表現の自由と健全な民主主義が持つ力を示している。『偏向報道』はニュースを受け身で眺める時代から、視聴者が自ら考え、確かめる時代への転換を促す作品である。ロングラン上映にはそれにふさわしい社会的意味がある。(坂本雅彦)
#映画偏向報道 #荻野欣士郎 #鳥居みゆき
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