2026/9/9
私が行く高校は、ここ。

私の好きな落語家の一人である笑福亭由瓶さんのまくらにこんな趣旨のくだりがある。「私クラスの落語家になると娘を私立の高校に行かせることができるんですよ」。堂々とした物言いに感心しかけると、実は無償化のおかげだというオチがつく。売れっ子の証しと見せかけて制度の恩恵にあずかっている自分を笑う。暮らしの実感を巧みに織り込んだ落語家ならではの自虐である。この笑いは授業料の無償化が家庭の選択肢を広げる力を端的に物語っている。家計の負担が軽くなり子どもを希望する学校へ送り出せる。その喜びは尊重されるべきだ。制度を利用する親子に何ら非はない。
しかし、一つの家庭にとってありがたい政策が地域の教育全体にとっても望ましい結果をもたらすとは限らない。私立を選びやすくする一方で、公立から生徒が減り、学校の縮小や統廃合が進むとすればどうか。目の前の負担軽減と引き換えに将来の子どもたちが通う学校を失ってはならない。恩恵を受ける家庭ではなくその先まで見通して制度を設計するのが政治の責任である。
兵庫県では、授業料支援の拡充を背景に私立を第一志望とする受験生が増え、公立高校で定員割れが相次いでいると報じられた。選択肢を広げるはずの政策が公立という大切な選択肢を弱めていないか。国は2026年度から高校の就学支援金の所得制限を撤廃し、私立全日制などへの支給上限を年45万7千2百円に引き上げた。ただし、対象は授業料であり、学校生活にかかる費用のすべてが無料になるわけではない。家庭の経済事情によって進学を断念する子をなくす。この目的に異論はない。私立にも独自の教育理念や実践があり、その役割を公立の補完だけに限定するのは適切ではなかろう。公立と私立がそれぞれの持ち味を発揮し、多様な学びを支えることには大きな意義がある。
しかし、私立を選べるようにすることと、所得を問わずその授業料を広く公費で肩代わりすることは分けて考える必要がある。財源には限りがある。負担能力のある世帯への支援拡大と公立校の校舎改修、教員配置、困窮世帯の教材費や通学費への支援とでは何を優先すべきか。公立高校は単に授業料の安い学校ではない。地域に学びの場を確保し、多様な家庭の子どもを支える公共の基盤である。私立校が少ない地域や、遠距離通学が難しい家庭にとって近くの公立校が存在する意味は重い。志願者数という一つの指標だけでは価値を測れない。もちろん、定員割れの原因を無償化だけに求めるのは早計だ。少子化や学校の立地、教育内容、入試制度なども関係する。公立側にも改善は必要である。だが、行政が補助によって学校選択の条件を変えた以上、その影響を調べずに「選ばれない学校の努力不足」と片付けるのは無責任だ。警戒すべきは生徒減少を理由とする公立の縮小がさらなる志願者離れを招く事態である。学級や教員が減り、科目や部活動の選択肢が狭まり、それを見て次の受験生が敬遠する。こうした循環の末に学校がなくなれば後から補助制度を見直しても地域の教育基盤は簡単には戻らない。しかも、授業料以外の負担が残る限り、私立を自由に選べる家庭となお公立を必要とする家庭の差は消えない。前者の選択肢を広げる一方で後者の通える学校を減らすなら「教育の機会均等」を掲げる政策として本末転倒である。支援額の大きさだけで公平性を語らず、支援の結果、誰にどのような学びの機会が残るのかを問わなければならない。
今すべきは支援の打ち切りではなく、優先順位の立て直しだ。低所得世帯には授業料以外も含めて手厚く支援する。所得に応じた支援の傾斜配分を再検討し、公立校の教育環境改善を同時に進める。私立への公費投入には学費総額や使途の透明性を求める。そして、公立の再編は単年度の定員充足率だけで決めず、通学距離や地域の将来まで見据えて判断すべきである。制度変更に際しては在校生や進学準備中の家庭が不利益を被らないよう経過措置も欠かせない。
由瓶さんのまくらは、無償化がもたらす身近な恩恵を笑いに変える。しかし、その政策の結末が「私立には通いやすくなったが近所の公立はなくなった」では笑えない。政治が誇るべきは無償化の対象をどこまで広げたかではなく、どの家庭の子にも確かな学びの場を残せたかである。公立を痩せさせる支援拡大には明確な歯止めが必要だ。
#高校無償化 #公立高校の定員割れ #笑福亭由瓶
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