2026/6/20
この問題については以前もブログで取り上げましたが、あらためて書いておきたいと思います。
沖縄県名護市辺野古沖で、研修旅行中の同志社国際高校の生徒らを乗せた小型船が転覆し、生徒と船長が亡くなるという、大変痛ましい事故が起きました。
まず何よりも、亡くなられた方に心から哀悼の意を表します。そして、負傷された生徒の皆さん、関係者の皆さんの心身の回復を願います。
今回の事故について、学校側の安全管理に重大な問題があったことは、厳しく問われなければなりません。生徒を校外活動に連れていく以上、事前の下見、気象状況の確認、船の安全性、引率体制、緊急時の連絡体制、ライフジャケットの着用確認などは、当然に学校側が責任を持って確認すべきことです。
どれほど教育的意義がある活動であっても、生徒の命と安全が最優先であることは言うまでもありません。
その意味で、文部科学省が安全管理上の問題を厳しく指摘したこと自体は、当然の対応だったと思います。生徒の命が失われた以上、学校法人の責任、引率体制、事前計画、当日の判断は、徹底的に検証されなければなりません。
しかし、今回あらためて考えたいのは、その安全管理上の問題と、文科省が教育基本法第14条違反と判断したことを、同じ問題として扱ってよいのかという点です。
ここは、慎重に分けて考える必要があります。
教育基本法第14条は、第1項で「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」と定めています。
一方で、第2項では、学校が「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動」をしてはならないと定めています。
つまり、教育基本法は、学校で政治的な問題を扱うことそのものを禁じているわけではありません。むしろ、良識ある公民を育てるためには、政治的教養が大切であると明確に述べています。
禁じているのは、特定の政党を支持させたり、反対させたりするための教育や政治活動です。
ここは、とても大事なところだと思います。
辺野古移設問題は、たしかに政治的な争点です。米軍基地、安全保障、沖縄の歴史、地方自治、国と地域の関係、住民の意思、環境問題など、多くの論点が絡み合っています。
だからこそ、学校で扱うには慎重さが必要です。
私は、学校教育の場で、教員や外部団体が特定の政治的立場を生徒に押しつけることには、強い慎重さが必要だと考えています。とりわけ安全保障や基地問題のようなテーマについては、国防上の必要性、地域の負担、歴史的経緯、住民感情、国と地方の関係など、複数の側面から丁寧に学ぶ必要があります。
一方の立場だけを正しいものとして示す教育は、主権者教育とは言えません。
もし今回の研修旅行で、特定の政治的立場に過度に寄った内容になっていたり、反対の立場や異なる見解を十分に示していなかったりしたのであれば、その点は厳しく検証されるべきです。生徒が多面的に考えるための材料を用意することは、学校の大切な責任です。
しかし、それでもなお、政治的な争点だから学校で扱ってはいけない、ということにはなりません。
むしろ、現代社会の重要な問題の多くは、政治的な争点でもあります。原発、憲法、安全保障、ジェンダー、入管、気候変動、貧困、社会保障、地方自治。これらをすべて「政治的だから危ない」と避けてしまえば、主権者教育は、選挙制度の説明や投票方法の確認だけで終わってしまいます。
それでは、現実社会の中で、自分の頭で考え、判断する力は育ちません。
ここで問われるべきは、辺野古移設問題を扱ったこと自体が教育基本法違反なのか、それとも、扱い方において特定の政治的立場への誘導があったのか、ということです。
この二つは、まったく別の問題です。
政治的なテーマを扱うことと、政治的に生徒を誘導することは違います。
前者は、主権者教育にとって必要な場合があります。後者は、学校教育として慎重に避けなければならないものです。
今回、文科省は「特定の見方・考え方に偏った取扱い」があったと判断したようです。しかし、それが直ちに教育基本法第14条第2項が禁じる「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育」に当たるのかについては、慎重な検討が必要です。
ここを曖昧にしたままにすると、教育現場には「政治的にデリケートなテーマは扱わない方が無難だ」という空気が広がってしまいます。
それは、由々しき事態ではないでしょうか。
もう一つ、重要な問題があります。
それは、政治的中立性について、誰が判断するのかという問題です。
文部科学省は政府の一機関です。大臣のもとにある行政機関です。その機関が、政治的中立性について自ら判断し、「これは教育基本法違反だ」と認定する。
これは、結論の賛否以前に、構造として大きな緊張感を伴います。
国家や行政の役割は重要です。教育行政にも当然、責任があります。特に今回のように生徒の命が失われた事案において、国や自治体が何も言わないということはあり得ません。
しかし、国家や行政を尊重するからこそ、その権限行使には慎重さと透明性が必要です。
政治的な問題について、政府の考え方に近いものは「中立」とされ、政府の考え方と異なるものは「偏っている」とされる。仮にそのような運用になってしまえば、教育現場はその時々の政権の意向を気にしながら、授業や校外学習を組み立てざるを得なくなります。
これは、主権者教育にとって非常に危険なことです。
学校現場は、ただでさえ慎重です。保護者からの批判、地域からの反応、行政からの指導、SNSでの拡散。そうしたものを考えれば、政治的にデリケートなテーマは、最初から扱わない方がよいという判断に流れやすくなります。
今回の判断が、「政治的なテーマは扱わない方がよい」というメッセージとして教育現場に受け止められるとすれば、それは大きな損失です。
中立とは、何も扱わないことではありません。
中立とは、対立する意見を隠すことでもありません。
むしろ、複数の立場を示し、事実関係を確認し、歴史的背景を学び、当事者の声を聞き、反対意見にも向き合いながら、生徒自身が考える余地を残すことだと思います。
教員が一つの結論を与えるのではなく、生徒が自分で考えるための材料をできるだけ豊かに用意すること。それこそが、教育基本法のいう「良識ある公民として必要な政治的教養」を育てる教育ではないでしょうか。
近年、何かに対して問題意識を持ったり、社会的な課題について意見を述べたりすると、すぐに「偏っている」と言われる風潮があります。
しかし、何かを真剣に考えるということは、自分なりの問題意識や立場を持つことでもあります。大切なのは、その立場を一方的に押しつけることではなく、自分の見方を自覚しながら、異なる意見や反対の立場にもきちんと向き合うことです。
これは、保守であれリベラルであれ、本来変わらないはずです。
私は保守系の議員として、国家の安全保障を軽んじるべきではないと考えています。米軍基地の問題も、単に地域の負担だけで語れるものではありません。日本の安全保障環境、日米同盟、抑止力、周辺地域の緊張など、現実的に考えなければならない論点があります。
同時に、沖縄に大きな基地負担が集中してきた歴史や、地域の声にも向き合わなければなりません。
安全保障を重視することと、地域の負担に耳を傾けることは、対立するものではありません。むしろ、どちらも現実を見るために必要な視点です。
だからこそ、学校教育においても、一方の立場だけを正義として示すのではなく、複数の視点から考える機会をつくるべきだと思います。
そして、そのような教育を可能にするためにも、行政が教育内容に踏み込む場合には、基準と手続きが明確でなければなりません。
安全管理の問題は、安全管理の問題として厳しく問う。
教育内容の問題は、教育内容の問題として、どこが、どのように、どの基準に照らして問題だったのかを丁寧に示す。
この二つを混同してはならないと思います。
今回の事故から学ぶべきことは、政治的なテーマを学校から排除することではありません。
第一に、生徒の命を守る安全管理を徹底すること。
第二に、政治的な争点を扱う際には、複数の見方を示し、生徒が主体的に考えられる教育設計にすること。
第三に、行政が教育内容に踏み込む場合には、その基準と手続きを明確にし、できる限り独立した専門的な検証を経ること。
この三つを分けて考える必要があります。
事故の責任を曖昧にしてはなりません。
しかし同時に、事故をきっかけに、教育が政治的に当たり障りのないテーマだけを扱う方向へ進んでしまうことも避けなければなりません。
子どもたちは、やがて有権者になります。社会の担い手になります。そのとき、現実の社会には、簡単に答えの出ない問題がたくさんあります。賛成と反対がぶつかり合い、利害が対立し、歴史や地域の事情が絡み合う問題ばかりです。
だからこそ、学校は安全を確保したうえで、そうした現実から目を背けない教育をしてほしいと思います。
生徒の命を守ること。
政治的な誘導を避けること。
そして、社会の難しい問題を正面から学ぶこと。
この三つは、対立するものではありません。むしろ、どれも教育にとって欠かすことのできない責任です。
今回の痛ましい事故を、教育を萎縮させる契機にしてはならないと思います。
必要なのは、政治的テーマを避ける教育ではありません。
安全で、多面的で、深く考えることのできる主権者教育へと、あらためて進んでいくことではないでしょうか。
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ホーム>政党・政治家>種田 昌克 (オイダ マサカツ)>政治的なテーマを学校から遠ざけてよいのか