2026/4/16
3月11日、東日本大震災の日に、福島県いわき市の中学校で給食として赤飯が提供される予定でした。
しかし保護者からの電話をきっかけに、最終的に校長判断で約2100食が廃棄されるという事態に発展しました。
さらにその後、責任を感じた教育長が私費で費用を支払うという異例の対応まで起き、問題は拡大していきます。
この一連の流れ、何が問題だったのでしょうか。

市の教育委員会によりますとこの問題について責任を感じた当時の服部樹理教育長が廃棄した「赤飯」にかかった食材購入費と炊飯代金の自費での負担を申し出たといい、3月末までに、食材を納入した福島市の事業者1社と、炊飯を担ったいわき市内の3つの事業者に対して合わせて34万1267円を支払ったということです。
まず前提として、「震災の日に赤飯は不謹慎だ」という声。
しかし赤飯は単なる祝い事の食べ物ではありません。
つまり、3月11日に提供する意味として
「復興への祈り」「命への感謝」
という解釈も十分に成り立ちます。
それにもかかわらず、
「赤飯=祝い=不謹慎」
この単純な図式で批判が起きる。
ここに、思考停止の危うさがあります。

今回の大きなポイントはここです。
最終的に廃棄を決断したのは現場(校長)であること
保護者からの一本の電話を受け、
この判断は一見「配慮」に見えますが、裏を返せば “空気に押された意思決定”とも言えます。
本来であれば、
これを説明する余地はあったはずです。
それをせずに廃棄に踏み切ったことで、
👉 食品ロス
👉 税金の無駄
👉 責任の所在の曖昧化
が一気に発生しました。

今回の背景には、「何かあればすぐ批判される社会」があります。
現場としては、
その結果、 最も無難=中止・廃棄という選択になる。
しかしこれは本当に正しい判断でしょうか。

廃棄の責任を感じた教育長が、私費で業者に直接支払いを行いました。
しかしこれは結果として、 契約上不適切(ルール違反)と判断されました。
つまり、
完全に悪循環です。

ここで重要なのは、 赤飯が良いか悪いかではありません。
問題の本質は3つです。
これはいわき市だけの問題ではありません。
郡山市でも福島県全体でも同じことは起こり得ます。
これから必要なのは、
です。
特に今回のように、 最終判断が現場(校長)に委ねられている構造
これは非常に危険です。
今回の問題は、赤飯でもなければ、校長個人の問題でもなく、
本質は、 空気に支配される意思決定です。
そしてその空気は、何でも批判する社会によって作られています。
しかし行政や教育は、その空気に流されてはいけないと思います。
説明し、理解を求め、必要なら批判を受け止める。
それが本来の姿です。
2100食の赤飯が失われたのは、単なる食品ロスではありません。
「考える力」と「判断の軸」を失った結果ではないでしょうか。
それが、震災を経験した地域の本当の強さではないでしょうか。
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