2026/5/28
私がハワイでイオラニ宮殿を訪れた際に知った事実。
カラカウア王がフリーメーソンのメンバーだった。
何故メンバーとなったのか?
そしてカラカウア王と明治天皇との意外な接点とは。
今回は、カメハメハ大王がハワイを統治した歴史とハワイ王国がアメリカに統治されていった、あまり知られていないストーリーをご紹介したいと思います。
*一次資料に触れ私なりに調べた歴史と解釈を含めたものですので、娯楽の範囲でお楽しみ頂ければと思います。
太平洋のほぼ中央に浮かぶハワイ諸島は、18世紀末まで外の世界と無縁だった。島々はそれぞれ独立した首長に支配され、統一王朝など存在しなかった。
1779年、イギリス人探検家ジェームズ・クック船長のレゾリューション号がハワイに来航した。この瞬間、ハワイの歴史は世界史の一部となった。
その島に、一人の若者がいた。
身長2メートル、筋骨隆々、鋭い目を持つ首長の甥。
カメハメハという名は「孤高の人」を意味するハワイ語だった。彼は誰よりも早くレゾリューション号に乗り込み、大砲を凝視した。その眼に宿ったのは恐怖ではなく、計算だった。
1782年、ハワイ島の首長が死ぬと王位継承争いが勃発した。
カメハメハはこの混乱の中で頭角を現す。彼が他の首長と決定的に異なっていたのは一点だった。
西洋人を排除せず、意図的に取り込んだ。
難破してハワイに漂着したイギリス人、ジョン・ヤングとアイザック・デイヴィス。カメハメハは二人を顧問と砲術師として召し抱え、西洋式大砲の運用を学んだ。英語も速習した。
結果は明快だった。
大砲と銃を装備したカメハメハ軍は、伝統的な槍と石の武器しか持たない他島の首長たちを次々と撃破した。1795年にハワイ王国建国、1810年には全諸島を統一した。
しかしカメハメハは単なる武力の人ではなかった。
彼が制定した「ママラホエの法」は戦時中の非戦闘員の人権を保護するもので、現代の国際人道法の先駆けとされる。
欧米列強との外交では独立を一切譲らず、「砂糖よりも白檀」で経済的自立を確保した。
西洋を利用し、飲み込まれなかった男。
それがカメハメハ大王だった。
カメハメハ大王が1819年に世を去ると、事態は動き始める。
翌1820年、ニューイングランド系プロテスタント宣教師の第一陣がハワイに上陸した。名目は「神の言葉の伝道」。
しかし彼らが持ち込んだのは聖書だけではなかった。
宣教師の子弟たちは次の世代で砂糖プランテーションを経営し、やがてハワイの政治と経済の実権を握る「ハオレ(白人)エリート」へと変貌する。
1843年、ホノルルにフランス系商人たちによってフリーメーソン・ロッジ「ル・プログレ・ド・ロセアニー第124号(スコティッシュ・ライト古典受理派)」が設立された。
これはヨーロッパの商業ネットワーク、政治人脈、情報網の太平洋拠点だった。
ロッジの名簿には、ハワイの商人、法律家、政治家の名が並んでいた。
そしてロッジは次のターゲットを定めていた。王族そのものである。
カラカウア王
1859年1月16日。ホノルルに一通の手紙が書かれた。
「ホノルルに居住する法的年齢に達した国務顧問である申請者は、友人に勧められ、かつ金銭的動機なく、自由意志でフリーメーソンの奥義への候補として自らを申し出るものである。知識への欲求、および同胞への奉仕の真摯な願望によって動機付けられている。」
イオラニ宮殿展示物より 署名:David Kalakaua(デイヴィッド・カラカウア)
まだ国王ではなく「国務顧問」だった青年が、自らメーソンへの入会を申請した。推薦人の一人はJohn O. Dominis――後にリリウオカラニ女王の夫となる人物だ。ロッジはすでに将来の王を視野に入れていた。
1874年、カラカウアはハワイ王国第7代国王に即位した。
その直後、1874年2月5日、彼にマーク・マスター章が授与された。即位と入会証は事実上同時だった。時計鎖飾りの裏には刻印がある。「DAVID KALAKAUA FEB 5th 1874」
1876年、カラカウアは「崇拝するマスター(Worshipful Master)」、ロッジ最高職に就任した。同年、米布互恵条約が締結され、ハワイ産砂糖がアメリカに無税で輸出できるようになった。砂糖で甘い汁を与えつつ、ハワイ経済をアメリカ市場に不可逆的に接続する。条約を主導したのはハオレ・プランター層だった。
1879年、イオラニ宮殿の礎石がフリーメーソンの儀式によって据えられた。
宮殿完成後の最初の公式晩餐会もメーソンの宴だった。
ハワイ王権の象征的空間は、その誕生の瞬間から内側で再定義されていた。
カラカウアの指輪の内側には「Ia Moi Mai ia K. Sep. 12-76」と刻まれていた。
ハワイ語で「王の御代に」。彼は王であり、同時にネットワークの役職者だった。
カラカウアは愚かではなかった。だからこそ、気づいていた。ハワイが飲み込まれつつあると。
1881年1月。カラカウア王は議会に告げた。「世界周遊の旅に出たい」。
アメリカ人議員たちは深く考えずに了承した。しかし用心深い彼らは条件を付けた。
「国王の監視役として2人のアメリカ人が随行する」。
監視役の一人が国務大臣・移民政策担当官、ウィリアム・N・アームストロング。
博学で記録好きなこの男は、カラカウアの一挙一動を観察し、後に旅行記『Around The World With A King』として出版する。
つまりカラカウアの秘密外交は、最初から筒抜けだった。
しかし王は動いた。
最初の目的地は日本だった。
1881年3月4日。ハワイ国王の乗った船が横浜港に入った。
波止場では驚くべきことが起きた。
日本の軍楽隊が「ハワイ・ポノイ」を演奏した。
急遽取り寄せたハワイ国歌の楽譜。
日本政府はカラカウアの来訪を知り、わずかな時間でハワイ国歌を習得して演奏したのだった。
カラカウアはこの瞬間、目を潤ませたという。
横浜から蒸気機関車に乗り東京へ。
明治天皇はカラカウアを外国元首として初めて天皇が直接会見する国賓として迎えた。これは異例中の異例だった。
3月11日、赤坂離宮。二人の君主が向き合った。
カラカウアは三つの提案を携えていた。
一、日布同盟条約の締結。 アジアの国々が連携し、欧米列強の太平洋進出に共同で対抗する。「アジア人によるアジアの防衛」。カラカウアは明治天皇紀に記された言葉を引いた――「アジア諸国は列強の支配を受けながら互いに孤立を深め無策である。この状況を抜け出すためには各国が一致団結し欧米に対峙する必要がある」
二、日本人移民の受け入れ。 疾病と西洋化でハワイ先住民の人口は激減していた。日本人移民でその空白を埋め、ハワイの人口基盤を再建する。
三、王室間の婚姻。 姪のカイウラニ王女(当時5歳)と、山階宮定麿王子(当時13歳)の縁組。血の絆で日布同盟を制度化する。
明治天皇は丁重だった。
監視役アームストロングは後にこう記録している。
「天皇は王の提案に上機嫌かつ丁重に耳を傾けた。しかし天皇は、それは熟慮を要することだと言った。日本の伝統から大きく逸脱することになる、と」
会談は長時間に及んだ。しかし結論は出なかった。
日本政府の判断は明確だった。同盟条約はアメリカの強烈な反発を招く。
婚姻提案も翌年に丁重に断られた。
山階宮には幼少の頃から決められた許嫁があるという理由で。
日本が応えたのは一つだけだった。移民の送出。
1885年、官約移民制度が始まり、日本人がハワイのプランテーションに渡り始めた。10年間で約3万人。これがのちのハワイ日系社会の礎となる。
カラカウアが欲しかったのは同盟だった。日本が与えたのは労働力だった・・・
日本からの回答を手に帰国したカラカウアを待っていたのは、さらなる圧力だった。
1887年、「銃剣憲法(Bayonet Constitution)」が武力を背景に王に押し付けられた。
起草者はロリン・サーストン・・・後のクーデターの主犯の一人で、フリーメーソンのメンバーだ。
この憲法でアジア系移民の選挙権は剥奪され、白人プランター層に権力が集中した。王は署名を強いられた。
王はなおも抗った。ハレ・ナウア協会を設立し、ハワイ先住民の伝統知識と文化の記録・継承に力を注いだ。
フラを公式行事に復活させ、ハワイ語を守った。
メーソンの儀礼と構造を逆用して、先住民だけの秘密結社を作った。
非先住民の新聞はこれを「不敬」「野蛮」と糾弾した。
1891年1月。カラカウア王はアメリカ・サンフランシスコで療養中に客死した。享年54歳。今の私と同じ歳。
毒殺の噂は当時から絶えなかった。
そして妹のリリウオカラニが女王となった。
リリウオカラニ女王は即位後、銃剣憲法の撤廃と先住民の権利回復を宣言した。これがハオレ・エリートにとって「最後の一線」だった。
1893年1月17日。13人の白人実業家と法律家で構成された「安全委員会」がクーデターを実行した。アメリカ軍艦USSボストン号から海兵隊160名が上陸し、イオラニ宮殿周辺に展開した。大砲が宮殿に向けられた。
リリウオカラニ女王は声明を発した。
「アメリカ合衆国の優勢な武力に対し、流血の事態を避けるため、私はここに王座を退く。しかしこれは、アメリカ合衆国政府がこの事実を知り、不正を正してくれることへの信頼に基づく、暫定的な措置である。」
女王の言葉は、宮殿の外では届かなかった。
しかし、ホノルル港に向かっていた船があった。
日本政府は動いた。
名目は「邦人保護」
当時ハワイには約25,000人の日本人移民がいた。全人口の約25パーセント。
しかし日本海軍が動いたのは、それだけが理由ではなかった。
ホノルル軍港に二隻の軍艦が入港した。巡洋艦「浪速」と「金剛」。
浪速艦長は東郷平八郎大佐。鹿児島出身の薩摩武士の末裔で、7年間のイギリス留学で世界の海軍戦術を身に付けた男だ。
二隻は港に展開した。そしてゆっくりと、意図的に、米艦ボストン号の両隣に投錨した。
浪速と金剛はボストンを挟み込んだ。
そして東郷は「礼砲」と称して大砲を轟かせた。
港に響いた砲声は、明確なメッセージだった。「日本はここにいる。見ている。」
岸壁のハワイ先住民たちは涙を流して歓喜したという。誰かが自分たちの側に立ってくれた。
しかし女王は戻らなかった。クーデターは完成していた・・・
アメリカ大統領クリーブランドはこの転覆を「不法」と認定し、ドールに辞任を求めた。
ドールは拒否した。
東郷の砲声は歴史を変えるには足りなかった・・・
浪速は翌年も再びホノルルに派遣された。
1898年。米西戦争の戦略的必要性を理由に、アメリカはハワイを併合した。
イオラニ宮殿からハワイの旗が降ろされ、星条旗が掲げられた。
この物語には二つの主役がいる。
一人はカメハメハ大王。西洋人を利用し、飲み込まれず、ハワイを統一した。
彼が生きた時代、列強はまだ「探検と通商」の段階にあった。
もう一人はカラカウア。賢明で、危機を見抜いていた。
明治天皇に同盟を求め、フリーメーソンを逆用しようとし、先住民文化を守ろうとした。
しかし彼が生きた時代、列強はすでに「支配と収奪」の段階に移行していた。
同じ戦略でも、時代が違えば、周辺環境が変われば結果は異なる。
私は東郷平八郎の砲声は正しかったと思う。
しかし一発の砲声が歴史を変えるためには、その背後に政治的意思と制度的覚悟が必要だった。
日本はハワイに移民を送ったが、同盟を結ばなかった。
声は上げたが、身を張らなかった。
力の示威と外交的意思が一致していなかったからです。
カラカウアは志を立てた。明治政府は外部環境から応える事ができなかった。
個人的推察ですが、討幕し、政府を立ち上げた自分たちの成り立ちと重なる点が多かったからではないだろうか・・・
そしてハワイ王国は消えた。
私の住むニセコエリアでも同様のことを感じます。
「問題があることは見えている、声も上げている、しかし制度的・政治的意思が伴わなければ流れは止まらない」
吉田松陰は言いました。
「志を立てるためには、人と異なることを恐れてはならない。」
右下に展示されているのがその指輪
イオラニ宮殿の展示室に、今もカラカウアの指輪が残っている。
内側の刻印 「Ia Moi Mai ia K. Sep. 12-76」
王の御代に。その王の御代は、あと17年で終わる。
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