2026/7/25
国民民主党提出のいわゆる「エロ広告規制法案」について、玉木雄一郎代表がYouTube LIVEで自ら説明を行いました。
その中で玉木代表は、この法案を「見たくない権利を保障する」ものだと位置づけました。
この一言をめぐって、ネット上では再び大きな議論が起きています。
結論から申し上げますと、この「見たくない権利」というロジックを持ち出したことは、この法案を守るどころか、むしろ懸念を深めるものだと私は考えます。
感情的な応酬ではなく、これまでの議論や判例等に即して冷静に整理していきます。(相変わらず長文です)
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まず動画を拝見しまして、玉木代表の説明を私なりにフェアに紹介します。
代表の主張の骨子はこうです。 国民民主党は表現の自由を守る。創作や発表への規制は必要ない。国が規制するハードローには絶対に反対で、今回は民間の自主規制に委ねるソフトローだ。
コンビニの成人向け雑誌のゾーニングのようなもので、コンテンツに踏み込むことは国でも民間でもやるべきではない。
その上で、「見たくないものを見ない権利」を一定程度保障することは必要なのではないか、と。
また、寄せられた懸念には最もだと思うところもあるので党内で勉強会を開く、とも述べられています(この姿勢は◎ですね)。
しかし、法案の正当化の根拠に「見たくない権利」を据えたことは、法的に見て、かなり筋の悪い選択だったように思えます。
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なぜか。まず、言葉を正確に区別する必要があります。
「見ない自由」は、もちろんあります。見たくないものから目をそらすことを、誰にも妨げられない。これは当然の自由です。
しかし「見ない権利」と言った瞬間、意味は一変します。
権利とは、他者に義務を発生させる概念だからです。私に見ない権利があるなら、誰かに「見せない義務」が生じる。
その義務を負うのは、表現し、広告を出す側です。
つまり「見たくない権利の保障」とは、構造上、表現の自由への制約とワンセットでしか存在できない概念なのです。
「表現への規制は必要ない、しかし見たくない権利は保障する」という説明は、残念ながら、それ自体が矛盾を含んでいます。
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では、日本の最高裁はこの問題をどう扱ってきたか。
まさにこの論点を扱った判例があります。「とらわれの聴衆」事件(最高裁昭和63年12月20日判決)です。
地下鉄の車内で流される商業宣伝放送を、乗客が「聞きたくないのに聞かされ、精神的苦痛を受けた」として争った事件です。
電車という閉ざされた空間では、乗客は放送から逃れられない。まさに「とらわれの聴衆」だ、という主張でした。
最高裁は、この請求を認めませんでした。
そして注目すべきは、補足意見を書いた伊藤正己裁判官の言葉づかいです。
伊藤裁判官は、聞きたくない音から「心の静穏を害されない利益」に一定の配慮を示しつつ、それを「人格的利益」と呼び、表現の自由のような憲法上の「権利」とは位置づけませんでした。
さらに、その利益は公共の場所では、家の中にいる場合と比べて大きく制約される、とも述べています。
なぜ「権利」と言わなかったのか。
仮に「見たくない・聞きたくないものから遮断される権利」を正面から認めれば、他者の表現の自由と至るところで衝突し、社会が回らなくなるからです。
この最高裁が慎重に避けた線を、立法でまたごうというのが「見たくない権利の保障」です。
こうした過去の経緯や、やろうとしているハードルの高さについては、改めて強く認識する必要があります。
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しかも、今回は「聞く」ではなく「見る」の話です。ここも判例の理解に照らすと、主張はさらに苦しくなります。
とらわれの聴衆事件の判例解説では、視覚は聴覚と違い、目をそらすことで外部からの表現を回避しやすい、と指摘されています。
耳は塞ぎにくいが、目は閉じられる。だから「見たくない」の保護は、「聞きたくない」よりもさらに弱くならざるを得ないのです。
加えて、駅前広場のような誰もが行き交う場所は、判例上「パブリック・フォーラム」として、むしろ表現の自由が特に尊重されるべき場と位置づけられてきました。
実際、2022年に大阪駅の「萌え絵広告」が議論になった際も、憲法訴訟に詳しい平裕介弁護士が、公共の場所であることは「見たくない」側にむしろ不利に働く、と整理されています。
公共空間だから配慮せよ、ではなく、公共空間だからこそ表現は守られる。
判例の基本線は、世間の直感と逆なのです。
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「それでも、見たくない気持ちには応えるべきだ」という声はあるでしょう。私もそう思います。
ただ、その答えは法的な「権利」の創設ではありません。
見たくないものを見ない利益を、あえて法的に構成するなら、それは「自分が見ないようにする行為を妨げられない」こと、つまり本人の側で表示を止められる仕組みに行き着きます。
フィルタリング、ペアレンタルコントロール、広告のオプトアウト設定。見る見ないを決めるのは、団体でも「みんな」でもなく、一人ひとりの利用者です。
これは私がかねて申し上げてきた、技術的対処が先だという話とぴったり重なります。
見たくない人が見ないで済む技術を磨くことと、何を見せてよいかを誰かが線引きすることは、似ているようで正反対の解決策なのです。
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見たくないものを見ないで済む社会は、表現を減らすことではなく、選べる技術を増やすことで実現すべき。
判例が積み上げてきた知恵を、立法の場に立つ私たちは軽んじてはならない。
自戒を込めて、そう思います。引き続き、この議論を注視し、表現の自由を守る立場から警鐘を鳴らしていきます。
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