主要7カ国の首脳が集まり、気候変動対策やウクライナ情勢などの国際的諸課題について話し合う「G7広島サミット」が5月19日に開幕し、3日間開かれます。7年ぶりの日本開催に盛り上がる陰で噂されるのが年内の解散総選挙です。噂が絶えない背景には、日本でのサミット開催年の解散が珍しくなかった歴史があります。これまでの国内サミットと解散の時期と「大義」についてまとめてみました。
G7サミットは主要7カ国の枠組みで会議がスタートした1975年以降毎年1回のペースで開催され、今回の広島サミットで49回目を迎えます。各国が開催国を持ち回りで開いており、日本開催は7回目。このうち、サミットと同じ年に衆議院の解散総選挙が行われたののは、なんと4回にのぼります!
「一般消費税解散」
日本が初めて開催国となった1979年の東京サミット。当時の大平正芳総理が解散に踏み切ったのは同サミットから3カ月後の9月7日でした。解散の理由は、大平総理のもとで閣議決定した「消費税導入」に関する民意を問うためでした。
当時の日本は、石油ショックによる不況に見舞われていました。大蔵官僚出身でもある大平総理は、新たな財源となる消費税の導入は財政再建に必要な手段と訴えましたが、国民からは厳しい視線が注がれました。大平総理が選挙期間中に導入を断念するも、自民党の選挙後の議席は衆院の過半数割れ、大幅に後退する結果となりました。
「死んだふり解散」
中曽根康弘総理がサミットの約1か月後に行ったのが「死んだふり解散」とキャッチ―な名前で呼ばれる解散総選挙です。
1986年5月に衆院選の「1票の格差」を是正するための改正公職選挙法が施行された中、政界で噂されたのが同年6月に任期満了で迎える参議院議員選挙との同時選挙でした。
新区割りのもとで高い支持率を誇る中曽根総理が早期の選挙に走らないよう、野党側は同日選挙に強く反対していました。中曽根総理も解散は考えていないと繰り返していましが、6月2日に臨時国会を開いて解散。自民党が圧勝を果たしました。
中曽根総理自身が「死んだふりをした」と表現したことが由来になりました。解散権を持つ総理の作戦勝ちとなった一方、野党側の「解散するなよ、絶対にするなよ」という牽制がフリになってしまったともみえますね。
「嘘つき解散」
「政界のドン」の異名をとり権勢をふるった金丸信衆議院議員が闇献金を受け取ったとして逮捕された「東京佐川急便事件」で、自民党への逆風が強まっていました。さらに、事件後の人事などを巡って党内が分裂。
こうした中、日本社会党などの野党が提出した内閣不信任決議が、自民党の一部の「造反」によって賛成が反対を上回り、可決しました。決議を受け、宮沢喜一首相はサミット直前の6月18日に解散しました。
サミット後に執行された選挙結果は、自民党が下野し、非自民8党派による連立政権(細川護熙内閣)の発足につながります。
1988年のリクルート事件などのカネと権力にまみれたイメージを刷新する政治改革の使命を託されていた宮沢総理は意欲を示していたものの道半ばでの政権交代となり、「ウソ」となってしまいました。同選挙は他にも「自爆解散」「造反解散」など散々な呼ばれ方をしていて、当時の混沌とした状況を伺い知ることができます。
「神の国解散」
「日本は神の国」ーー森喜朗首相によるこの発言が新聞やテレビをにぎわせたのをリアルタイムで目撃した読者もいらっしゃるのではないでしょうか。
体調悪化で2000年4月に緊急入院した小渕恵三総理(同年5月に死去)の後継として急きょ就任した森総理。発言自体は総理就任直前のものでしたが、世論からは厳しい声が飛び、就任からわずか2ヶ月後の6月2日に解散に踏み切ることとなり、改選後に自民党は単独過半数割れに追い込まれました。
森総理が選挙期間中に発した「無党派層は投票日に寝ていてくれればいい」などの発言も、火に油を注ぎました。しかし、年代別の投票率をみると、30代を除くすべての年齢層で前回選挙よりも微増しており、「寝た子を”ちょっとだけ”起こす」効果があったようにもみえます。
これまで見てきた4つの選挙は政権交代や第一党の議席減少など波乱含みの展開になる傾向があるようです。
次の解散総選挙は、どう呼ばれる選挙になるでしょうか?
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