2026/8/6


核の影は、いまも行政の奥底に潜んでいる
広島が一年で最も静かに、そして深く息をする日が来た。
だが、静けさの底には、いまだ言葉にされない「構造」が沈んでいる。
今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」で、高橋博子・奈良大学教授(元広島市立平和研究所研究員)は「核へのレジスタンス」と題して講演した。
その内容は、私たちが知っているつもりで知らされてこなかった“戦後日本のかたち”を、史料の裏付けとともに突きつけるものだった。
◆ ミクロネシアは“解放”されていないまま核実験場にされた
米国は1944年、日本の委任統治領だったミクロネシアを占領した。
だが国連の信託統治領となったのは1947年。
つまり、国際法上の手続きが整う前に核実験を開始したことになる。
ビキニでの1946年の原爆実験。
住民は「解放」ではなく「軍事利用」の対象となり、米兵すら除染作業で被ばくした。
核の影は、戦争が終わった瞬間に消えたわけではない。
◆ 第五福竜丸だけではない。高知の漁船も、全国の漁民も被ばくした
1954年のビキニ水爆実験。
第五福竜丸の名は広く知られるが、実際には 高知県の漁船を含む多数の船が被ばくしていた。
延べ千隻規模とも言われる。
だが、米国は情報を隠し、日本政府は追随した。
高橋教授によれば、米側資料に基づく情報公開請求を外務省に行っても、「文書が存在するかどうかも答えない」という。
これは、広島県庁呉支所の虚偽公文書作成・公益通報つぶし事件での「存否応答拒否」と同じ構造だ。
核の影は、行政の奥底に沈殿し、今も形を変えて現れる。
◆ 戦前は“原爆投下は国際法違反”と抗議し、戦後は“残留放射能は大したことない”へ
1945年8月10日、日本政府は米国に対し「原爆投下は国際法違反」と抗議した。
ところが戦後になると、残留放射能の影響を過小評価する立場へ転じた。
理由は単純だ。
米国が残留放射能を認めれば国際法違反が確定する。
だから米国は否定し、日本政府は追随した。
その結果、被爆者の被害認定は極端に狭められた。
そして、広島のデータを基準にした国際的な被ばく基準は、福島第一原発事故の評価にも引き継がれた。
核の影は、基準となり、制度となり、いまも人々の生活を左右している。
◆ 戦犯の大量釈放と核被害の過小評価は同時進行だった
1950年代、日本の戦犯は次々と釈放された。
同じ時期、ビキニ事件は「政治決着」とされ、米国の法的責任は棚上げされた。
戦犯助命のために、核被害が軽んじられた。
高橋教授の史料は、その構造を裏付ける。
核の影は、政治の取引材料にされ、被害者の声は置き去りにされた。
◆ 広島の行政にも残る“核の影”
本紙が経験した、広島県庁呉支所の虚偽公文書作成・公益通報つぶし事件についての情報公開請求に対する「存否応答拒否」。
これは、核被害の資料をめぐる外務省の対応と同じ構造だ。
核の影は、行政の奥底に沈殿し、
「都合の悪い事実は存在しないことにする」という文化を生み続けている。
◆ 広島は、核の影を見つめ続ける街であるべきだ
広島は、核の影を最も深く知る街だ。
だが、その影は過去のものではない。
行政の構造に、国際政治の力学に、そして被害者の声の扱われ方に、いまも潜んでいる。
高橋博子教授の講演は、
「核へのレジスタンス」とは、
過去の記憶に向けてだけではなく、
現在の政治・行政の構造に向けてこそ必要だ
ということを教えてくれた。
広島が静かに息をするこの日、
私たちはその影を見つめ直す責任がある。
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