さとう しゅういち ブログ
:植松無罪論と兵庫県警による少女介護士虐殺事件――弱者を一側面でしか測れない社会が生む二つの悲劇
2026/7/26
◆社説:植松無罪論と兵庫県警による少女介護士虐殺事件――弱者を一側面でしか測れない社会が生む二つの悲劇
相模原事件から十年。
いまなお一部には「植松聖は精神疾患だから無罪にすべきだ」という言説がある。
しかし、この言説は、精神疾患や知的障害を
“責任能力のない存在”として一括りにする差別的構造
を内包している。精神疾患があっても、行為の意味を理解し、結果を予測し、行為を制御できるなら、
責任能力は認められる。
精神疾患=無罪ではない。
これは刑法の基本原則である。ところが、社会には「精神疾患ならなんでも無罪」「知的障害なら常に被害者」という
思考停止の風潮
が広がっている。
この風潮が、別の弱者を殺すという深刻な矛盾を生んだのが、
兵庫県で起きた16歳少女介護士死亡事件である。
◆“弱者保護”の名で弱者を殺す構造
兵庫県の事件では、知的障害のある利用者の不正確な告発を警察が鵜呑みにし、
暴力を止めた少女介護士を「加害者」と断定した。
兵庫県警は否認を理由に勾留延長を繰り返し、
少女は拘禁反応で衰弱し、死亡した。弱者を守るはずの制度が、別の弱者を殺した。
これは「弱者=常に被害者」という固定観念が生んだ構造的暴力である。
これでは我々介護現場人間はたまった者ではない。
植松事件と兵庫の事件は、表面的にはまったく異なる。
しかし、根底には同じ潮流がある。
人間を一側面でしか測らない
弱者を単純化し、属性で判断する
社会がその思考停止を許容する
権力はその風潮に乗り、誤った判断を下す
この潮流が、相模原では大量殺人を、兵庫では未成年職員の死を生んだ。
◆「弱者は常に正しい」という思考停止が司法を歪める
弱者性は重要な視点である。
しかし、弱者性=常に正しい、ではない。知的障害者の証言も、精神疾患のある人の行動も、
他の人と同じく検証されるべきである。
それを怠れば、兵庫の事件のように、
弱者保護の制度が弱者を殺す
という矛盾が生まれる。司法は属性ではなく、事実で判断されなければならない。
◆植松無罪論は、むしろ差別を強化する
植松無罪論は、精神疾患のある人を
「責任能力のない存在」として扱う。
これは、精神疾患のある人の主体性を奪い、
社会の一員としての人格を否定する差別である。さらに、
「精神疾患なら無罪」という風潮は、
兵庫の事件のように、別の弱者を犠牲にする危険を高める。弱者を守るための制度が弱者を殺す。
この矛盾を直視しなければならない。
◆責任はどこにあるのか
兵庫の事件で「誰が責任を取るのか」という問いは、
制度・警察・社会の三層で考える必要がある。制度の責任
未成年勾留の運用、否認=悪質という前近代的文化。
警察の責任
知的障害者の証言を検証せず、少女を拘禁反応で死なせた。
社会の責任
弱者を単一の側面でしか見ない価値観を許容した。
この三層が揃うと、
弱者保護の制度が弱者を殺すという矛盾が生まれる。
◆結語:弱者を単一の側面で測る社会を終わらせるために相模原事件と兵庫の事件は、
どちらも「弱者を単一の側面でしか測れない社会」が生んだ悲劇である。精神疾患だから無罪。
知的障害だから常に被害者。
弱者だから常に正しい。
こうした思考停止を続ける限り、
同じ悲劇は必ず繰り返される。弱者を守る制度が弱者を殺す社会を終わらせるために、
私たちは人間を単一の側面で測る価値観を捨て、
事実に基づく判断を取り戻さなければならない。
さとう しゅういち
サトウ シュウイチ/50歳/男