さとう しゅういち ブログ
相模原大虐殺事件から10年──白色テロとしての構造を直視する
2026/7/26
◆相模原大虐殺事件から10年──白色テロとしての構造を直視する
十年前の夏、相模原市の障害者施設で十九名が殺害された事件は、
「優生思想による大量殺人」として記憶されてきた。
しかし、事件の全体像を見渡すとき、私たちはもう一段深い構造──
国家権力への忖度を自ら演じた“白色テロ”としての側面
を直視しなければならない。植松聖死刑囚は、犯行前に衆議院議長宛へ直訴状を送り、
「日本国の指示があれば障害者を殺害する」と記した。
これは単なる妄想ではない。
国家の意思を勝手に代行し、弱者を標的に暴力を行使する。
歴史上繰り返されてきた白色テロの典型的構造である。
◆新自由主義の波が社会を変質させた
2010年代の日本社会には、新自由主義とグローバリズムの波が強く流れ込んでいた。
生産性を唯一の尺度とし、弱者を「自己責任」と切り捨てる風潮。
生活保護バッシング、障害者への冷笑、ネット上の選別思想。
「弱者を叩けば有権者がスカッとする」という政治コミュニケーションが横行し、
それを発する政治家が支持を集めた時代である。植松の思想は社会の周縁ではなく、この風潮の延長線上にあった。
社会の“影の中心”にあったと言ってよい。
◆施設構造が暴力を正当化する舞台となった
やまゆり園では、検証委員会報告書により、
居室の常時施錠、長期の身体拘束、命令口調の職員文化など、
構造的な虐待が存在していたことが明らかになっている。植松はこの環境を「新日本秩序」と呼び、
入所者を“管理される存在”として理解した。
施設の構造が、植松の白色テロ的自己認識を強化したのである。
◆人間を一側面でしか測れない社会が暴力を許容した
事件の背景には、
「人間を一側面でしか測れない社会」
という深刻な価値観がある。生産性、効率、負担──
こうした単一の尺度で人間を評価する風潮が広がると、
弱者は「社会のお荷物」とみなされ、
暴力は「社会のための浄化」と誤認される。植松はその極端な形を体現したにすぎない。
問題は、社会全体がその価値観を許容していたことである。
◆有権者の責任──誰を押し上げたかが社会の波形を決める
事件の社会的責任は、政治家だけにあるのではない。
政治家を押し上げた有権者の価値観こそ問われるべきだ。弱者攻撃をする政治家を支持したのは誰か。
生産性で人間を測る価値観を許容したのは誰か。
障害者を「社会の外側」に置く政策を放置したのは誰か。
暴力的言説を“スカッとする”と受け止めたのは誰か。民主主義とは、社会の波形を有権者が選び取る制度である。
ならば、植松事件は私たち自身の選択の帰結としても捉え直されねばならない。
◆十年後の今こそ、社会の波形を変える責任がある
死刑判決によって事件が「終わったこと」にされがちだが、
本質的な問いはむしろ今こそ鋭く突きつけられている。
弱者を切り捨てる政治を支持するのか。
生産性だけで人間を測る社会を続けるのか。
暴力を“社会の代弁”とする風潮を許容するのか。相模原事件は、私たちがどの波形を選び取るのかを問う、
民主主義の根本に関わる事件である。十年の節目にあたり、犠牲者への哀悼を新たにするとともに、
社会の構造そのものを問い直す責任が、私たち一人ひとりにある。
さとう しゅういち
サトウ シュウイチ/50歳/男