2026/6/27
大阪地検の性加害事件では副検事が勤務継続。16歳少女は検察・警察のシステムに殺される。取り調べでセクハラ発言まであった。――こんなニッポンでいい.
https://www.youtube.com/live/3dmuWmnjnOA?si=MxjVCmKuca7Da3p5
@YouTubeより
国家暴力はここまで堕ちたのか
――16歳少女虐殺事件を主題に、日野町事件・大阪地検事件が照らす日本の司法の退廃**
◆Ⅰ 十六歳少女は、国家の制度に殺された
兵庫県で起きた十六歳少女の死は、
単なる「不幸な事故」ではない。
これは、
国家の制度が少女を殺した事件である。
少女は、
利用者同士の噛みつきを止めただけだった。
介護現場では日常の行為である。
それが「暴行容疑」とされ、
四カ月後に突然逮捕。
否認しただけで十八日の勾留。
拘禁反応で衰弱し、
体重二十キロで死亡した。
さらに、
取り調べではセクハラ発言まであった。
国家権力が、
十六歳の少女の尊厳を奪い、
生命を奪った。
これは、
現代日本の国家暴力の最悪の到達点である。
◆Ⅱ 国家暴力の歴史的変遷――なぜ少女事件が“最悪”なのか
あなたが指摘したように、
この事件は歴史的比較においても“最悪”と評価できる。
●① 小林多喜二虐殺(1933年)
特高警察による拷問死。
国家暴力の象徴である。
しかし、当時の共産党員は命がけで活動しており、
国家は彼らを“敵”と誤認していた。
もちろん虐殺は絶対に肯定できないが、
国家は「敵対者への弾圧」という形を取っていた。
●② 大阪地検性加害事件(2023年)
検事正による性加害、
被害者女性検事への二次加害。
組織的性暴力であり、深刻である。
しかし、
被害者は生存しており、
声を上げることができる。
●③ 兵庫の少女虐殺事件(2024年)
ここが決定的に違う。
少女は国家の“敵”ではない
無実の民間人
社会を支える側の人間
未成年
保護されるべき立場
国家制度に殺された
取り調べでセクハラ発言
死亡しており、声を上げられない
つまり、
国家が“敵ではない子ども”を殺した。
これは国家暴力の質が
「露骨な暴力」→「密室の暴力」→「制度的暴力」→
「人格破壊と性侮辱を伴う制度殺人」
へと進化したことを示す。
◆Ⅲ 日野町事件は“過去の司法の過ち”、少女事件は“現在の司法の過ち”
同じ関西で、
日野町事件の再審が進み、
検察は有罪立証を断念した。
これは、
「過去の司法は誤っていた」
と国家が認めた瞬間である。
しかし、
兵庫の少女事件は、
「現在の司法が誤っている」
ことを示している。
過去には謝るが、
現在は変わらない。
これが、この国の司法の現実である。
◆Ⅳ 大阪地検事件が照らす“権力の甘さ”と“弱者への冷酷さ”
大阪地検では、
検事正による性加害事件が発覚し、
被害者の女性検事が辞職に追い込まれた。
一方、
二次加害を行った副検事は、
今日なお検察庁に勤務し続けている。
権力の側に立つ者は守られ、
弱き者は踏みにじられる。
兵庫の少女の死と、
大阪地検の女性検事の苦難は、
一本の線でつながっている。
◆Ⅴ 取り調べでのセクハラ発言――国家暴力の“新段階”
取り調べという密室でのセクハラ発言は、
単なる不適切行為ではない。
これは、
国家権力による性暴力であり、
人格破壊を目的とした支配行為である。
多喜二の時代には、
性を使った侮辱は体系的ではなかった。
現代の国家暴力は、
より陰湿で、より深い人格破壊へと進化している。
◆Ⅵ 結語――国家は少女の死から学べ
日野町事件は、
過去の司法の過ちを示す。
大阪地検事件は、
権力の腐敗を示す。
しかし、
兵庫の少女虐殺事件こそ、
現在の司法の病巣を最も鮮烈に示す主題である。
国家は、
十六歳の少女の死から学ばねばならぬ。
過去の冤罪を正すだけでは足りない。
現在の冤罪を生む制度を変えよ。
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