2025/8/6
3月10日未明、325機のB29爆撃機が38万1,300発、1,665トンの焼夷弾を投下し、東京下町の大部分を焼き尽くした。
死者・行方不明者は8万人とも、民間調査では10万人以上とも言われ、被災者は100万人以上。この3月の東京大空襲のあとも、4月には明治神宮、5月には首相官邸の日本館も焼け落ちるなどのすさまじい空襲が、東京だけでなく各都市の人々の命とくらしを危機におとしいれていた。3月26日には沖縄戦が始まり、民間人の多くもまきこまれ、日本側の死者行方不明者は19万人近くにのぼり、4人に1人の沖縄県民が亡くなった。8月6日、広島に、そして8月9日、長崎に原爆が落とされ、8月15日正午、昭和天皇による終戦の詔書がラジオで流された。1945年のことである。あれから80年の歳月が流れた。
あの時期、政治はどう動いていたのだろう。大東亜戦争の出口戦略の糸口をつかむことを求められた小磯国昭政権が有効な和平工作を行うことができず、内閣は崩壊。その後を継いだのが4月7日に発足した鈴木貫太郎内閣だった。鈴木は当時79歳。天皇から総理の任を引き受けるよう言われたが「わたしは老齢79にして耳も遠く、内閣の首班としては不適当だと思っていますので、どうかお許し下さい」と一旦は辞退する。
しかし、早く戦争を終らせるようにと思う天皇の気持を知る鈴木は総理就任を最終的に受け、1945年4月8日、ラジオを通じ国民に言う。「いっさいをあげて戦争を勝利に導くよう努力いたそうと存じます」と。
大多数の国民は、東条英機や小磯の内閣と同じように鈴木内閣もまた「戦って、戦って、戦い抜け」の戦時内閣とあまり変らないと受けとったに違いないと、懐刀だった迫水久常は「大日本帝国最後の四か月」で書いている。
「1億総玉砕という人為的な大暴風雨のなかで、急いで進路の変更を打ち出したら、国内は四分五裂し、同胞同士が殺傷し合うという修羅場が出現するかもしれない」状況下で急な進路進行はできず、総理は本音と建て前を使いわけたのである。
それは、総理だけではない。陸軍大臣を拝した阿南惟幾も、心中は早期終戦論者でありながら、常に閣議で主戦論を展開したが、それは徹底抗戦を主張する陸軍の暴走をおさえるためであった。
鈴木総理は組閣直後に迫水に国力調査を命じる。陸軍は徹底抗戦を主張しているが、今の日本に本当に戦争を続けていくだけの力があるか調べ国力の現状をつかんでおく必要があるとの思いからだった。
その結果は、民心の動向、人的国力、輸送力及び通信、物的国力、国民生活のいずれも、惨憺たるものであった。
連日、熱中症アラートが出るような異常な猛暑の中、8月1日から臨時国会が始まり、4日には予算委員会が開かれ、「トランプ減税」や「少数与党」情勢を受け、「国難」という言葉まで出てきているが、80年前の国難とは比べようもない。しかし、いつの時代にあっても、この国の命運を考え、人々の命とくらし、そして平和の維持のために、パフォーマンスでもなく、自分の手柄でもなく、本音と建て前を使いわけてでも、ものごとを成就するために尽力する人間が必要なのは言うまでもない。
そしてそれは、時運派ではなく義命派の政治家がいることが大切なようだ。時運派、義命派と言ってもわかりにくいかもしれない。
終戦詔書には「時運のおもむく所」という箇所がある。これは、時の運びでそうなってしまったから仕方なくという意味で、安岡正篤はこれを「義命の存する所」に変えるべきだとしていたが、閣僚たちの反対で入らなかった。戦争を終結させるのは正しい道筋であるとの見地に立つのが「義命の存する所」であるのに、それを「学問のない人たち」によって入れられなかったのは、安岡は千載の痛恨事と言い、そのせいで、戦後の政治が行きあたりばったりになったと言っている。
今の政治が、行きあたりばったりにならないよう、政治家の一人として心したいと思う。
猛暑に辟易なさっていると思うが、一気に引きこまれる迫水久常の「大日本帝国最後の四か月」(河出書房新社)。8月のお勧めの書である。
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手取りを増やす夏!
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