2023/3/12
【あの日から12年が経ちました】
東日本大震災発災から、昨日で12年の月日が経ちました。
私は、発災数日後には、地方議員のメンバーと共に、福島県いわき市に飲料水をを運ぶお手伝いをいたしました。その後、地元町会が集めてくださった支援物資をレンタカーに積んで、町会の方と共に運転手として、福島県三春町に出発いたしました。
蒲田警察署から「災害支援車両」のステッカーをいただき、亀裂や穴のあいた東北自動車道の運転はドキドキでしたが、被災地の体育館に荷物を下ろした瞬間、疲れは吹っ飛びました。
その後、陸上自衛隊の予備自衛官に災害招集命令が出たことを聞き、いてもたってもいられず、東京地方協力本部に「航空自衛隊予備自衛官にはいつ招集がかかるのか」としつこく電話をかけてしまいました。
結局、航空自衛隊の予備自衛官は被災地から最も遠い西部航空方面隊管内である九州の「若手」のみ招集され、関東のジイサンには招集がかかりませんでした。
そこで、加盟している民間のボランテイア団体DMATを通じて、東京都医療救護班の一員として宮城県気仙沼市に民間ボランティアとして行くことに致しました。
気仙沼市健康管理センター「すこやか」を拠点に支援活動のお手伝いを行いました。東京都医療救護班は、都庁事務方の課長、係長、都立病院の医師1名、看護師2名、そして私の6名のチームでした。
私の仕事は、まず、朝、宿泊地の一関から気仙沼まで、東京都医療救護班のメンバーを載せて、ハイエースの運転手です。連日の激務で1時間の運転中、睡魔が何度も襲ってきます。気仙沼に到着すると、毎日「すこやか」に到着する全国自治体や医療機関職員の受け入れ作業、朝のブリーフィング資料の配布、司会、拠点のゴミ出し等が朝のミッションです。
これが終わると、東京都医療救護班のメンバーを載せて、また、ハイエ-スで気仙沼市内、陸前高田市内の避難所を巡回します。途中、持参の薬が足りなくなると、医師、看護師を現場に残して一人で、拠点まで戻り薬を受け取り、また、避難所に戻ります。
既存の道はほとんど消失しており、ナビが「次のファミリーマートを曲がって」等と指示しますが、そこにはコンビニはなく、大型漁船が打ちあがっていたりしてナビは使いものになりません。
また、ガレキの道には、クギや様々な鋭利なものが落ちていて、3日に1回はパンク修理です。
目の前に拡がる信じられない悲惨な光景には人間の小ささ、大自然の怖さを痛感いたしました。
そんな中、被災者の方々が皆さん底抜けに明るかったのが驚きでした。こちらが元気を頂きました。
夜には、気仙沼市役所で開かれる災害対策本部会議にも出席いたしましたが、市長さんが全国から応援に来た我々に、ありがとう!と深々と頭を下げられて号泣されたのがとても印象的でした。
ある日、昼食にはいった食堂では、注文していない船盛が我々の前に出されたことがあります。そこのご主人が「東京から来てくれて、こんなことしかできないが」と言われたのには、医療救護班全員で涙でした。
私は、この活動に参加するまで、公務員は「のんびり」仕事をしている、と思っていました。が、気仙沼で共には活動した東京都医療救護班のメンバー、他自治体の職員さんたちは、クタクタになりながらも、少しでも被災者のために、と懸命に働いていました。
また、途中、見慣れた大田区職員さんの防災服や「大田区」の腕章を見た時には、心から頼もしく、嬉しい気持ちになりました。
ヘトヘトになりながらも、学び多い活動を終え、新幹線で医療救護班のメンバーと乾杯をして「実は私、議員なんです」と告白しましたら、だれも驚かないのです。
課長さんが「知ってました。でも、あなたが一言も言わないので我々も黙っていました」と。
それは、ありがたいやら、照れくさいやら。その割には、こき使ってくれたな❗️
この記事をシェアする
ホーム>政党・政治家>いぬぶし 秀一 (イヌブシ ヒデカズ)>【あの日から12年が経ちました】東日本大震災発災から昨日で12年の月日が経ちました。