2026/3/28
本日の夕方、「南海トラフを震源とする巨大地震が起こった時に、避難所の体育館での段ボールで仕切られただけの狭いスペースで生活しなければならなくなったとき、日常的に、地域の人たちとの交流がないと、ちょとした音や赤ちゃんが泣いただけで、「うるさい」と怒鳴りつけ、とても険悪な空気になることは目に見えているので、大地震が起こる前に、ズタズタになっている人間関係を回復することが必要であり、そうした機会の創出に、有志の会は取り組んでいますので、みなさんも、御意見をお寄せください」と、アナウンスしながら、有志の会で町をみなでまわっていたところ、あるマンションの方から、「うるさい!!」という声が聞こえてきました。
そうした声をあげた人にとっては、アナウンスの内容は問題ではなく、とにかく、うるさかったのでしょう。うるさいと感じたことは間違いないことでしょう。
そもそも、何故、人の声、さらには赤ちゃんや子供の声がうるさいと感じられてしまって、怒りが湧いてきてしまうのでしょうか。

しばらく前に、長野市で、すぐそばに住んでいる信州大学工学部の教授からの、公園の子供の声がうるさいというクレームがあったことへの対応として、廃止されてしまうという出来事がありました。その教授は、「自分は公園を廃止しろとまでは言っていない」と、後で弁解していましたが、子供の声がうるさいと彼が発したクレームは、子供がいるからうるさい⇒子供が集まる公園があることが原因だという彼の思考の現れであったからこそ、市は公園を廃止してしまったことはあきらかです。
その教授の心においては、自分と子供たちは、まったく無関係な存在であるという思考が前提となっています。それは、自分自身が子供のころには公園で声をあげて遊んだという、自分自身の歴史・人生が忘れ去られてしまっているということ、いいかえれば、自分自身の存在に無自覚であるということです。
今日「うるさい!!」と叫んだ人においても、自分が大震災の時に、避難所に行かなければならなくなったときにどうなるかという、自分自身のことが深くみつめられていないからこそ、感情に任せて叫んでしまったのでしょう。
信州大学の教授や、今日うるさいと叫んだ人のことを、大げさなことばで言い表せば「不寛容」といえるのでしょう。そして近代のことをある思想家は「不寛容の時代」と呼んだのですが、わたしは単に不寛容というような包容力の問題ではなく、実はいつも自分は被害をこうむっているという被害者感情こそが、心の根っ子にあるということを思うのです。
被害者感情は、反転して、「悪いのは相手だ」と、攻撃性を必然します。そして現代人は被害者感情に支配されているので、些細なことで感情が爆発し、攻撃的にならざるを得ません。
そうした被害者感情が解消する道は、自分が受け入れられているという体験をすること以外にはありません。それは身近な人間関係においては、自分と異質な人との関係において、相互に相手の声を聞くというところから始まります。
自分の周りの声が「騒音」としか聞こえない者が、避難場所において共同生活ができるのか、空恐ろしく感じたのですが、その克服は、日常生活における相互の尊重と承認にこそあり、それは、にぎやかなイベントにおいてではなく、日常生活における助け合い、そしてお互いに迷惑をおかけしているという自覚においてしか得られないということを、痛感した次第です。
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タカヤナギ マサヒロ/69歳/男
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