2024/5/22
こんにちは。兵庫県川西市議会議員の長田たくや(ながたく)です。
今日は敗戦前の小学生の歴史教科書を紹介します。先にパート1をご覧ください。
(パート2です。パート1はこちら)
文字がほとんどです。小学校向けの歴史教科書ですが、こんな感じですよという簡単な紹介をします。
初等科國史の内容を途中までですが、ざっくりまとめていきます。
■ 日本誕生
天孫降臨(天照大神の孫にあたるニニギノミコトが地上に降り立つ)した地は宮崎県、初代:神武天皇は九州の日向地方を治めていました。
東の方はまだまだ悪いヤツがいるからこらしめに行こう!となって大阪の難波に着きました。生駒山を超えて大和の国(奈良)へ攻めましたが、兄のイツセミコトが矢を受けてしまい竈山(かまやま:和歌山市)で亡くなります。「日の神の子孫が太陽に向かって戦を進めるのはよくない」という理屈で、海路で紀伊(和歌山)までぐるりと迂回し、八咫烏(やたがらす)が道案内されながら、ついに大和の国(奈良)を制圧しました。

「八紘(あめのした)を掩いて(おおいて)宇(いえ)と為む(せむ)」
橿原の宮居で即位の礼を行いました。これが我が国の起源です。
以下、教科書の引用です。
今、畝傍山の陵を排し、橿原神宮にお参りして、天皇の大御業(みわざ)をはるかにおしのび申しますと、松風の音さえ、二千六百年の昔を物語るようで、日本に生まれたよろこびを、ひしひしと感じるのであります。
いや、ほんと小学校の教科書なん?すごく風流ですよね。
当時の小学生も橿原神宮に行った際には、この内容を思い出すことができるでしょう。
■ 一気にタイムワープ
教科書は、そこから一気に10代:崇神天皇までタイムワープし、宮中にある三種の神器(うち鏡と剣)の移動について触れています。さらに、朝鮮半島のミマナ国が、となりの新羅に脅されてSOSを出しているという海外事情にも言及しています。11代:垂仁天皇は伊勢の五十鈴川の近くに天照大神を祀る神社(皇大神宮:伊勢神社の内宮)を建立しました。
■ はじめての海外遠征(三韓征伐)
12代:景光天皇から14代:仲哀天皇の間、東北や九州には未開の地があり、熊襲(くまそ)や蝦夷(えぞ)などの反乱者(わきまえないもの)が出てきて、わがままな(教科書で多用される言葉)な振る舞いを繰り返しました。
仲哀天皇は妻の皇后(神功皇后)とともに熊襲討伐に赴きましたが、途中で崩御しました。未亡人となった神功皇后は、「朝鮮の新羅が熊襲を支援している」と見抜き、新羅討伐に向かいました。この辺りが、いわゆる「三韓征伐」です。
女性が戦を指揮していた…男尊女卑が当たり前ならば、こんな話を残しますか?

■ 権力者あらわる
16代:仁徳天皇では、「民のかまど」について言及され、21代:雄略天皇まで国が豊かでしたという記述されています。
「豊かになったとのは神々のおかげである」と、伊勢神宮の近くに豊受大神を祀り、これを「外宮」としました。
これで伊勢神宮に内宮と外宮の2つがある意味がわかることになります。
大事なものを保管する蔵をつかさどる重い役目を命じられたのが、タケノウチノスクネの子孫にあたる蘇我氏です。蘇我氏が権力者として描かれていきます。神武天皇から1000年、青山にこもる大和から日本全体あらわす日の本の国となりました。
■ 仏教との出会いと融合
国が豊かになると、国民の心にゆるみが生じました。朝廷では「世襲」があたりまえで、中にはわがままになるものがいました。そのころ、新羅(朝鮮)も暴走して日本との約束をやぶりました(いつものやな)。29代:欽明天皇の時代に内外ともに不安定となりました。
30代:推古天皇は聖徳太子(21歳)を摂政に置き、ゆるんだ政治を立て直しました。ゆるんだからこそ、17条憲法、冠位十二階などの改革を進めたんですね。そのころに仏教が広まり、神を祀ることをおろそかにするものが出てきました。そこで聖徳太子は仏教を研究し、日本になじむようにして「法隆寺」を建立しました。
その頃、隋(中国)という国ができ、周りの国を見下し、いばっていました(現代ですか・・・?)。
■ 大化の改新
聖徳太子が亡くなると、再び蘇我氏のわがままが増しました。
34代:舒明(じょめい)天皇のころに隋が崩壊し、唐という大国ができました。国の安全が油断ならない状況なのに。35代:皇極天皇のとき、蘇我氏のわがままは頂点に達します。自分たちの墓を「陵」、家を「宮」、子たちを「王子(みこ)」と称したのです。ここ立ち上がったのが舒明天皇の子供である中大兄皇子と同志の中臣鎌足です。
36代:孝徳天皇は、中大兄皇子を皇太子として政治を一新して(物理的に)、悪い習わしをなくしました。年号を「大化」に変え、都を難波(大阪)に移し、大化2年には新政の方針を示しました。国民はみな天皇の御民(みたみ)であり、土地は全部奉還して国民はこれを使うこと、あたらしい立派な人が政治をたすけること、などを定めました。これが「大化の改新」です。聖徳太子がなくなってから20数年後のことでした。
■ 迫られる国内整備
中大兄皇子が38代:天智天皇となったとき、新羅(朝鮮)と唐(中国)がさらに強大になり、これらが朝鮮半島の高句麗や百済を攻めていました。百済が日本に助けを求めましたが、相手国は強大で高句麗も百済も滅びてしまいました。新羅がいよいよこちらに攻めてくるかもしれない。
そのため、都を近江にうつし、法令や戸籍を整え、国力と防衛力を向上させました。
40代:天武天皇のときには唐が弱くなって新羅と争うようになり、その間に国の守りを固めていきました。41代:持統天皇が香久山(奈良)の西に藤原宮をつくり、42代:文武天皇は「大宝律令」で法律をつくり、43代:元明天皇のときに「平城京」ができあがりました。44代:元正天皇のときに「古事記・日本書紀」という国史の本をつくりあげ、各地方には「風土記」という地理書がつくられました。奈良の都が最も栄えたのが45代:聖武天皇の時でした。
■ 悪い坊主出現
46代:孝謙天皇の時、「奈良の大仏」ができあがり、全国やインドまで名僧が参列しました。
48代:称徳天皇の時に、「道鏡というワルいの坊主」がいました。朝廷に使えて政治をあずかっているうちにわがままになり、「宇佐八幡神宮のおつげとして道鏡に皇室を譲ればもっと国が良くなる」と嘘の奏上する事態になりました。しかし、「和気清麻呂」がその異常事態に気づいて49代:光仁天皇のときに道鏡を島流しにしたのです。
■ 平安時代の栄華と衰退
「平城京は良いのだけど、外国と交流には不便だなぁ」と50代:桓武(かんむ)天皇は京都に「平安京」をつくりました。その頃から、皇室の方も支那(中国)からマレーシアまでおでかけになったとのことです。桓武天皇から安定した時代が50年続くと、藤原氏が目立って盛んになってきました。
56代:清和天皇のころから藤原氏が摂政・関白となり、59代:宇多天皇のころには藤原氏もわがままになってきました。代わりに重用された菅原道真は、唐の国から学ぶことはもうないことと進言し、遣唐使を廃止しました。
60代:醍醐天皇になってからは道真を右大臣、藤原氏を左大臣としましたが、藤原氏は道真の評判がよくないのを利用し、貴族層と結託して道真を太宰府へ左遷しました。この頃の太宰府はたいした仕事もなく、事実上の左遷であり、道真は無念のまま亡くなりました。藤原氏のわるだくみは後々に判明し、道真を「天神」とあがめて62代:村上天皇のときに京都北野に社をたてました。
藤原氏は66代:一条天皇から70代:後冷泉(ごれいぜい)天皇まで最も華やかな生活をしており、最高にわがままになってくると、今度は地方で武家が力をつけはじめ、源氏と平家が台頭しました。平安時代では、多くのきらびやかな文化が起こりました。遣唐使が廃止され、日本独自の文化ができ、紫式部による源氏物語(世界初の女流作家)もこの頃です。
71代:後三条天皇が世の成り行きを深く心配され、自ら政治をつかさどり倹約につとめ、ゆるんだ政治を立て直しました。藤原氏も手だしができませんでしたが、わずか5年で崩御されました。72代:白河天皇も堅調な政治をつかさどったので、藤原氏はだんだんと衰えていきました。
■ 藤原氏の時代から次の時代へ
75代:崇徳天皇の時、武家が強くなってきた時代で、平家が西国を根城にめきめきと勢いをのばしました。平家と源氏の戦いがつづいて、最終的には源氏が朝廷にもどりました。源頼朝の死後、代わりに北条氏が台頭してきます。またもやわがままになるときがありましたが、北条泰時と時氏は身を慎んで政治をおこないました。
鎌倉武士の時代です。この頃に蒙古(モンゴル帝国)が誕生し、高句麗を経て日本を襲った「元寇」がおこりました。その時に活躍したのが北条時宗です。元寇が終わり、時宗の死後、またゆるみが起こり北条氏がわがままになってきました。
■ わがままになる➡しばかれるの繰り返し
96代:後醍醐天皇は、わがまま過ぎる北条高時を、楠木正成を用いて倒幕を指示しました。この計略が北条氏にバレてしまい、壱岐(九州北部の島)までうつることになります(島流しという表現は使わない)。北条は足利尊氏に六波羅(京都)を守るように指示を出しますが、足利は情勢をみて官軍(天皇の味方)に寝返ってしまいました。
その後、新田義貞などの活躍により天皇は壱岐から京都へ戻ることができました。年号を建武とあらためて新しく政治を行いました(建武の中興)。しかしその2年後、足利尊氏が権力を欲して朝廷に刃を向け、天皇は一旦比叡山に、最終的には吉野までおうつりになりました(逃げるとは表現しない!)。その間も足利率いる賊軍と官軍が戦いを続け、勤皇の武将は吉野の桜のように、いさぎよく大君のために散りました。
98代:長慶天皇・99代:後亀山天皇の御代となりましたが、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」というように御4代57年間の吉野山は、壮烈な軍物語(いくさものがたり)で満たされています。
今、吉野神宮にお参りして、600年の昔をしのぶとき、谷をうずめて咲く花は、これら忠臣たちが後醍醐天皇の御霊をいつの世までもおまもり申し、おなぐさめ申し上げているように思われます。
↑初等科國史から引用。小学校の教科書ですよ…吉野の桜を見る目も変わるかもしれません。
■ 前半終了
これで教科書の前半といったボリュームになります。
99代の天皇まで、本当に地続きの歴史だなぁと感じませんか?そして、やたらわがままが出てきて、「そうなっては没落するのだ」という教訓を、これでもかと詰め込んでいます。多少本当の歴史と異なる部分もあるかとは思いますが、大筋として誤りはないかとは思います。
天皇に関する記述はネガティブな表現とならないように工夫されていますね。
対象は小学生ですから、日本を主軸にした勧善懲悪の楽しいストーリーで良いと思います。暗い歴史はもっと大人になってからで良いのです。いかがでしたでしょうか。歴史を知らなかった人が読んでも、ちょっとは楽しかったのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
素敵な1日でありますように。
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