2022/4/20
江戸川区「葛西」の地名の由来・歴史(金井たかしの「江戸川区情報」)
私は船堀に住んでいますが、葛西地区に近く、筋トレが趣味のために地下鉄東西線西葛西駅近くにある西葛西ゴールドジムに行っています。葛西地区は生活圏なので、今回は、江戸川区の「葛西」の地名の由来を確認してみることにします。
「葛西」という地名は、江戸川区民以外の人の間でもかなり知名度が高いものであると思います。この葛西の地名の由来は、江戸川区の公式サイトで説明が見つかります。
「江戸川区の地名(3) 葛西」(江戸川区郷土資料室作成 解説シート)
ここでは、「葛西」という地名は、「下総国(しもうさのこく)葛飾郡(かつしかぐん)」と呼ばれた地域の西部という意味ということが記載されています。
そして、「『葛飾』は、奈良・平安時代の律令制の郡名であり、この地域は、現在の千葉県市川市を中心として、西は隅田川、東は千葉県白井(しろい)市、北は埼玉県久喜(くき)市(旧栗橋町くりはしまち)・茨城県古河市にまたがる広大な範囲でした。」とされています。
この記事から、「葛飾」という地名は、奈良・平安時代(西暦710年~)からある、とても古い地名であることがわかります。また、西側は隅田川までの地域が葛飾であったこともわかります。
葛飾郡の地域の西部というのが「葛西」の地名の由来で、とてもわかりやすいものです。それでは、次に、葛飾郡のどこを境にして、西部とされていたのかについてみてみます。
「11世紀頃、葛飾郡は現在の江戸川(当時は太日河[ふといがわ]といい、渡良瀬川[わたらせがわ]の下流)を境にして分割され、西側は「葛西」、東側は『葛東(かつとう)』といわれていました。当時の葛西は、墨田・江東・葛飾・江戸川・足立区と、埼玉県の東端一帯を指しました。」と説明されています。
葛飾郡は、現在の江戸川を境に「葛西」と「葛東」に分けられていたのです。昔は、今の荒川放水路(昭和5年[1930年]にできています)がなく、江戸川から隅田川までの地域に大きな川がなかったので、大まかに言ってしまうと、江戸川から隅田川までの間の地域が葛西という地域にあたるわけです。
そして、明治時代には、「葛西村」ができています。「明治22年(1889)の町村制施行により、江戸川区内は10ヵ村に統合され、新川の南側の桑川村・長島村・東宇喜田村・西宇喜田村が「葛西村」となりました。」と説明がされています。
明治時代に葛西村ができましたが、現在、「葛西」は町名としては存在していません。ただ、「葛西」の名の付く町名に「北葛西」、「南葛西」、「西葛西」、「東葛西」、「中葛西」があり、「葛西」の名称は江戸川区南部の地名を指すものとして定着しています。(筆者金井たかしのプロフィール)
「金井たかし 江戸川区の政策研究(金井たかし公式HP)」 (東京都江戸川区)
弁護士 金井高志(金井たかし)
(江戸川区在住 弁護士 武蔵野大学[江東区]法学部・大学院教授)
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