2026/8/2
一昨日、市立幼稚園をめぐる再編計画の渦中にある幼稚園保護者の皆さんとともに、その思いをお伝えするため教育委員会を訪ねました。私は同席させていただき、保護者の皆さんの切実な声を改めて胸に刻みました。最初に申し上げたいのは、これは、市立か私立かという二項対立で語るべきものではないということです。子どもたちは皆、等しく大切な存在です。市立も私立も、それぞれが充実していかなければなりません。ただ、子どもには一人ひとり個性があります。市立の環境が合う子もいれば、私立だからこそ力を発揮できる子も大勢います。だから、安易にその選択肢を狭めていいのか、との思いから、同行させていただきました。
このご相談を受けてから寝つきの悪い日もありました。議員生活は28年目になりますが、私はどうしても、このような案件に慣れることができません。なぜなら、議員には行政を執行する権限がないところでの難しい案件だからです。一方で、長年行政を見続けてきた経験から、行政内部の判断について一定の見識は身につけてきたつもりです。だから難しいのです。行政判断の背景に全く理がないわけではない。一方、市民の皆さんには、それぞれの暮らしや人生に根差した思いがあります。その間に立つ者として、どちらかだけを見れば済む問題ではありません。その重さを前にすると、私は今でも胸が締めつけられます。ただ、今回について言えば、教育委員会の当事者の皆さんへの説明は、しかるべき手順を欠いたものだったと言わざるを得ません。
こうした複雑な案件に慣れることができない私は、まだ議員に成り切れていないのでしょうか。実は私はそうは思っていません。もし、「所詮こんなものだ」と割り切り、多くの方々の人生や思いを事務的に処理できるようになったとしたら、それは本当の意味での熟達とは言えないと思うのです。経験を積んでも、市民の皆さんの苦しみや不安に向き合うたびに悩み、苦しむ。それは未熟さではなく、むしろ議員という仕事が負うべき責任なのではないでしょうか。私はそう自分に言い聞かせています。
この問題がどのような結論に至るのか、今はまだ分かりません。それでも私は市民一人ひとりの思いに寄り添い、行政をただ攻撃するのではなく、その実情にも思いを巡らせながら、考え抜く議員でありたいと思います。
政治や行政の世界では、前例や制度論、手続きといった言葉で物事を整理しなければならない場面があります。それは必要なことでもあります。しかし、その向こう側には必ず、一人ひとりの暮らしがあり、心があります。世の中に割り切れないことがあふれるなか、市民と行政の狭間で悩むことは決して楽ではありませんが、その苦しみから逃げてしまえば、政治は人を支える営みではなく、ただの事務になってしまいます。人の痛みや不安に対する感覚を麻痺させることなく、そのたびに立ち止まり、打開策を探り、悩み続けるからこそ、議員は市民代表と呼んでもらえるのではないかと思うのです。
行政の常識に慣れ過ぎないこと。
人の痛みに鈍感にならないこと。
「慣れない」からこそ、広く市民の皆様の声に耳を傾け続けることができる。もし、「慣れない」ことが「議員に成り切れない」ということなのだとしたら、私はそのままで構いません。初心をいつまでも持ち続けたいと思います。むしろ、その「成り切れなさ」こそが守り続けたい信条であり、それだけは決して手放したくないと思っています。
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