2026/6/23
自分では真剣に取り組んでいるつもりでも、ときには立ち止まり、議員として自分がどのように見られているのかを省みることは必要でしょう。私の政治姿勢は、ときに慎重すぎると受け取られるかもしれません。しかし、その根底にあるのは、「人間社会は単純化できない」という認識です。
個人を抑圧する全体主義は論外として、個人の自由は公共の福祉と両立させてこそ社会は成り立ちます。自由はかけがえのない価値ですが、共同体もまた不可欠なのです。理屈は大切ですが、人間の情が不要になることはありません。市場の活力は社会を豊かにしますが、公共の役割も欠かせません。競争は発展を促しますが、その果ての搾取や戦争は許されません。社会は、このような相反する価値の緊張関係の上に成り立っています。私は、どちらか一方に偏るのではなく、その均衡点を探り続けることこそ政治の役割だと考えています。
極論は分かりやすいものです。「敵」と「味方」を分ければ済むからです。私が学生だったころ、いわゆる「ディベート」が注目された時期がありました。あるテーマについて、実際の信条とは関係なく賛成派と反対派に分かれて論戦を行うものです。当時、そのやり取りを見ながら、人は立場さえ定まれば、それなりに理屈を組み立て、一人の“演者”になることができるのだと感じたものでした。そして、対決構図を前提とした議論は、進行も分かりやすく見映えもします。
やや古い話ですが、2010(平成22)年9月22日の名古屋市会総務環境委員会で、参考人としてお招きした、衆議院法制局に勤務経験のある学者の方が、「それぞれの政党の立場に沿った理論を組み立てることが仕事だった」といった趣旨のお話をされたことがありました。法制実務に携わる立場であれば、それも一つの役割でしょう。しかし、政治家までがそうであってよいのでしょうか。
現実の社会では、議論の相手にも一理があり、自らにも限界があります。物事は決して単純ではありません。政治を看板や戦術として捉えれば、場面ごとに言葉を使い分けることになります。しかし、自らの生き方や実感から自然に生まれた信条であれば、批判や逆風にさらされても、その芯は容易には揺らがないはずです。
地方政治は、とりわけそうだと思います。子育て、学校教育、防災、衛生・医療、福祉、地域のつながり、交通――。そこには理念やイメージだけでは語れない、人々の日々の暮らしがあります。もちろん政治には妥協や調整が必要です。しかし、それは信念がないということではありません。そして、当然ながら議員として決断は不可避です。議会は表決の連続であり、議員はどこかで意思を決めなければならないのです。しかし、対立を煽るのではなく、より多くの人が納得し共感できる合意点を探り続けることも、政治に求められる大切な役割ではないでしょうか。むしろ、自らの根っこを持つ人ほど、何を譲り、何を譲れないのかが明確になるのだと思います。
考えてみれば、これは政治論であると同時に人間論でもあります。人は、自らの生き方とかけ離れた言葉を語り続けることはできません。反対に、暮らしや経験、喜びや痛みの中から生まれる言葉には、不思議と体温が宿ります。人との接し方、地域との向き合い方、弱い立場の人への眼差し――。そうした日々の積み重ねの中に、その人の姿勢は自然と滲み出るものではないでしょうか。
政治は制度や統計、法令や組織運営を扱います。しかし、その先にいるのは、一人ひとりの暮らしを営む人間です。だから私は、政治をできる限り暮らしの言葉で語りたいと考えています。理念を抽象論で終わらせるのではなく、生活の実感に照らして語り続けること。政治姿勢とは、選挙のときだけ掲げる旗ではありません。それは日々の生き方そのものであり、その積み重ねの先にこそ政治への信頼は育まれるのだと思います。
旗よりも、「根っこ」を大切に。
そのことを胸に刻みながら、私は今日も市政に向き合っています。
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ハットリ マサヤ/57歳/男
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