2026/8/14
戦後81年目の敗戦の日をむかえようとしている。
戦没者を追悼し、再び戦争の惨禍を引き起こすことがないように、誓いを新たにする日だ。
だが、今のこの国の動きをみていると、果たして犠牲になった御霊に顔向けできるのだろうか、という思いが込み上げてくる。
高市早苗首相は、成長戦略の柱とする17分野の一つに「防衛産業」を位置づける。
だがこの「防衛で稼ぐ」発想は日本は「死の商人」国家に再びなると宣言するに等しい行為だ。
いくら「兵器」を「防衛」と呼び変えようが、「人殺しの道具」であることに変わりはない。
「人殺しの道具」を売って儲ける、なんとあさましい事か。
第2次世界大戦後、戦争を体験した経済人は、「もうこりごりだ、これから日本は平和経済で生きる」と誓った。
私は、これを戦後日本経済の倫理観の柱だと受け止めその姿勢を支持してきた。
その先人の決意が戦後80年を経た今、破られた。
愚かというほかない。
戦争のリアルを知らない、
語ることは勇ましいが人を信用できず淋しく臆病な政治家や近欲で先人が戒めとした指針すら簡単にかなぐり捨てせせら笑う経済人によって。
戦争で儲けようなんて、最も軽蔑してきたこと、されてきたことではなかったのか。
それが今この国の中枢で公然と方向転換が行われている。
それも昨年の今頃には、カネにまみれ軽蔑され国民の信頼を失い失意のどん底にあったはずの汚れた政治家たちによって。
わずか一年も経たないうちにあれよあれよという間に復権し、我が物顔でかっ歩させてしまっている。
彼らのどこに国民の民意を反映していると言える正当性があるのか⁉
政治に関わるものの一人として、復権させてしまったことに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
国民の多くに顔向けできない。
まして、戦争で無念の死を遂げた先人にどう詫びればいいのか。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」(日本国憲法前文)した日本国憲法に背くことが、
26年前の9月、衆議院・憲法調査会で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
という日本国憲法前文を引用して
「非常におめでたい一文」「改憲の機会があれば真っ先に変えようと思っている」
と言い放った高市氏のもとで行われている。
私は、憲法遵守義務がある衆議院議員が公然と憲法を否定する言葉を言い放っていた事実を忘れないし、
それがなぜ許されたのか、そしてこうした人物が総理大臣にまでなってしまう日本の危うさを憂うる。
防衛白書は防衛力強化の一環として、4月に決定した殺傷能力を持つ武器の輸出全面解禁に触れている。
「同盟国・同志国の抑止力を強化する」ことが日本の防衛につながると強調してはいるが、
武器商売を正当化するための理由付けに過ぎないと思っている。
これほどおいしい金儲けはないと、頭の中は金もうけのことしかない。
日本製の武器で世界各地の民が命を落とすかもしれないことへの罪の意識の欠片すら感じない。
これまで築き上げてきた平和国家の歩みと信頼を一瞬にして失わせるものだ。
暮らしを後回しにし、産業の「軍事化」を加速させることが決して平和につながることはないと声を大にして訴えたい。
防衛白書に「新しい戦い方」の章を設け、各国による無人兵器の活用や、防衛産業強化による「継戦能力」確保の取り組みを列挙しだした。
「戦争しない」決意は横に押しやられ、「戦争」遂行をシュミレーションする世の中にまで落ちぶれるとは、
戦争体験を聞かされてきた私にとって思いもよらなかったことだ。
人間は、過ちを繰り返すものだと思いたくないが、
戦争はだれが起こすのかの歴史の教訓から、日本国憲法が「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」と謳った意味を今噛みしめている。
「戦争」に至らしめない不断の努力をするより、
戦争を金儲けの手段として再びそこに手を出し、それを覆い隠したまま「防衛」を語る政府に
私たちの命を、子や孫の未来を託すわけにはいかない。
先人に顔向けできる政治に変えるために闘うことを8月15日を前に誓う。
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